身が好んで用いた「伝説」によると、悪魔的性向の東洋人だったとある。中部インドに生まれた先天的ヴァンプで、長らく秘密の殿堂に参籠《さんろう》して男性|魅縛《みばく》の術を体得したのち、とつじょ風雲急なるヨーロッパに現われて、その蠱惑的《こわくてき》美貌と、不可思議な個性力と、煽情《せんじょう》的な体姿とを武器に、幾多国政の権位に就《つ》く人々を籠絡《ろうらく》し、大戦にあたっては、雲霞《うんか》のごとき大軍をすら、彼女の策謀一つで、瞬《またた》く間に墓場に追い遣《や》っている――というと、このマタ・アリは、それ自身素晴らしい物語的存在のようだが、事実は、マタ・アリは完全に普通の女であった。誘惑的な身体と顔以外には、なんら特別の才能があったわけではない。もっとも、美しいだけで平凡な女だったからこそ、あれほど思いきった活躍ができたのだといえよう。
マタ・アリは、欧州大戦の渦中にあって、策を削《けず》り、あらゆる近代的智能を傾けて闘った、あのドイツスパイ団という厖大《ぼうだい》な秘密機構の一重要分子であった。ここにおいて、このマタ・アリの生涯を語ることは、今日の太陽のごとき生色《せいしょく》を帯び、現代そのもののような複雑性を暗示し、しかも、アラビアン・ナイトを思わせる絢爛《けんらん》たる回想であらねばならぬ。
マタ・アリの自叙伝なるものがある。それによると、彼女は、富裕なオランダ人の銀行家と、有名なジャワ美人の母との間に、ジャワ、チェリボン市に生まれた。十四の時、インドに送られて神秘教祭殿に巫女《みこ》となり、一生を純潔の処女として神前に踊る身となった。マタ・アリという名は、彼女の美貌を礼讃《らいさん》して、修験者《しゅげんじゃ》たちがつけたもので、Mata Hari というのは、「朝の眼」という意味である。この「朝の眼」が十六歳のとき、スコットランド貴族で、インド駐在軍司令部のキャンベル・マクリイ卿が、祭壇に踊っている彼女を見染《みそ》めてひそかに神殿から奪い去った。マクリイ卿夫妻は、インドで贅沢《ぜいたく》な生活を続けて、一男一女を挙げたが、土人の庭師が、マタ・アリへの横恋慕《よこれんぼ》から彼女の長男を毒殺したので、マタ・アリが良人《おっと》の拳銃《ピストル》で庭師を射殺した事件が持ちあがって、夫妻はインドにいられなくなり、倉皇《そうこう》としてヨーロッパへ帰っ
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