ないところだった。この功績で、アイヒレルの名はドイツのスパイの間に記憶されている。所持品をすっかり元の場所へ返して、夫人以外のスパイが室外に去ると、しばらくしてメリコフはわれに返った。見ると、自分は寝台に寝ていてフォン・リンデン伯爵夫人がにっこりして傍《かたわら》に立っているから、びっくりして起きあがろうとすると、
「あら、お眼覚め? 食卓でお眠りになったものですから、こちらへおつれ申しました。ずいぶんぐっすりお寝みでございましたわ。」
はっとしたメリコフが、急いでバス・ルウムへ行って、手早く持ち物を検《しら》べてみると、腹巻のポケットにもちゃんと鍵がかかっているし、そっくり元の場所にある。なに一つ紛失してもいなければ、触れた形跡さえないので、ほっとして寝室へ帰ると、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が、強烈なイットを発散させながら寝巻に着更《きが》えていた。
しかしメリコフは内心十分の疑いを抱いたのだろう。証拠のないことだし、自分も暗い饗応《きょうおう》に預《あず》かっているので、素知らぬ顔をしてパリーへ着いたが、大使館へ出頭して外交郵便夫の役目を果すと同時に失踪《しっそう》してしまった。その後大戦は始まる。ロシアはあんなことになる。一メリコフの行方《ゆくえ》など捜《さが》しもしなかったろうが、突然消え失《う》せた理由だけは、後日処刑された稀代《きだい》の女スパイ、フォン・リンデン伯爵夫人ことマタ・アリの告白によって判明したのだった。
世界大戦を背景に活躍した、あの有名な踊子のスパイ Mata Hari は、大戦にともなう挿話中の白眉《はくび》である。
この物語に伴奏をつとめるのは、殷々《いんいん》たる砲声だ。空を裂く爆撃機の唸《うな》りは、どの頁《ページ》にも聞こえるだろう。各国の無線は執拗《しつよう》にマタ・アリの首を追って、燈火が燃えるように鳴り続ける。彼女の報告一つで、深夜海底を蹴って浮びあがる潜航艇もある。当時初めて現われた鋼鉄の怪物、超弩級《ちょうどきゅう》タンク「マアク九号」も、その圧倒的な体躯《たいく》と銃火の牙《きば》をもって、この全篇を押しまわるのだ。将軍、参謀、陸軍大臣等要路の大官をはじめ、一皇太子と二人の帝王まで、楚々《そそ》たる美女マタ・アリの去来する衣摺《きぬず》れの音について、踊らせられている。
Mata Hari ――彼女自
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