後、陸上との交通が完全に絶たれるのを待って、出帆後過激な労役に酷使することを「上海《シャンハイ》する」と言って、世界の不定期船《トランパア》に共通の公然の秘密だった。罪悪の暴露を恐れて上海《シャンハイ》した人間に再び陸《おか》を踏ませることは決してなかった。絶対に日光を見ない船底の生活、昼夜を分《わか》たない石炭庫の労働、食物其他の虐待から半年と命の続く者は稀だった。
狂気《きちがい》のように為吉は釜《ボイラ》から降りて音のした釜戸《ドア》の前に立った。外部からは把手《ハンドル》一つで訳なく開けることが出来た。
糞便と人体の悪臭がむっと鼻を打った。真暗な奥の薄敷《アンペラ》と麪包《パン》屑の間から、
「あ、為公じゃねえか」と声がした。
「眼を隠せ! 明りを見ちゃ不可《いけ》ねえぞ!」
咄嗟《とっさ》の間に為吉は呶鳴った。固く眼を押えて半病人のように這出して来たのは殺された筈の坂本新太郎であった。
「手前生きて居たのか」
「うん。歯が痛んで血が出て仕様がねえから医者を起しに出たところを掴まえられて上海《シャンハイ》された。停船《ストップ》してるじゃねえか、何処だ此港《ここ》は? 大連か、浦塩《ウラジオ》か、何処だ」
「神戸だ」
「なに、神戸? 四、五日|機関《エンジン》が廻っていたと思ったが――」
「それがよ、此の俺が手前を殺《ば》らしたって騒ぎで、それで俺あ此船へぶらんてん[#「ぶらんてん」に傍点]したんだ。すると、いいか、陸から無電が飛んで来て船は召還よ。いってえ、あの梨を剥く時手前に借りた此の小刀《ナイフ》が好くねえ、おまけにあれで指を切ってるじゃねえか」
その小刀を逆手に持って為吉は奥炭庫《クロス・バンカア》の前の鉄梯子《タラップ》に腰を掛けながら、白痴のようににたにた[#「にたにた」に傍点]と笑った。彼は明らかに海の呼声を聞いたのである。自分の無罪を立証し得る悦びよりも、只《ただ》死損いの坂本を助ける為めに折角乗った此の船――しかも仲々|仕事口《チャンス》のない此頃、望んでも又と得られない好地位を見捨てて――船を降りなければならないのが不満で仕様がなかった。第一、恨みこそあれ、此奴を助け出すなんてそんな義務が何処にある。この男は俺に殺されたことになっているんじゃないか。と彼は考えた。いや、刑事も言った通り確かに俺が殺したんだ。それに何だって今頃になっ
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