身分証明を求められ、即刻身体検査を受けているのに――眼ざすただ一人の人間だけついにこの法の触手にふれることなくして終ったとは、なんという皮肉であろう!

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「斬裂人《リッパア》のジャック」は、何か[#「何か」に傍点]のことでホワイトチャペル界隈《かいわい》の売春婦全部を呪い、相手選ばずその鏖殺《ほうさつ》を企てたのだというのが、いま一般に信じられているジャックの目的である。憎悪と怨恨《えんこん》に燃えて、その復讐欲を満たすために、かれはあれほど血に飽きるところを知らなかったというのだ。その根本の原因は何か! いまとなってはただ、そこにたんなる推定が許されるにすぎない。ジャックは、この付近の売春婦から悪性の梅毒でも感染し、それが彼の人生を泥土《でいど》に突き入れたのであろう。すくなくとも、彼はそう感じて、その自暴自棄《じぼうじき》の憤怒《ふんぬ》――かなり不合理な――が彼を駆って盲目的に、そして猪進《ちょしん》的に執念《しゅうねん》の刃を揮《ふる》わせ、この酷薄な報復手段を採《と》らしめたに相違あるまい。病毒の媒体としてもっとも恐るべきイースト・エンドの哀れな娼婦の一
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