からである。そして、この目的のためには、それはたしかに「黒く」かつ「長い」ほうが便利だったに相違ない。イースト・エンドは眠らない町である。男を探す夜鷹《よたか》と、夜鷹をさがす男とが夜もすがらの通行人だ。場末とはいえ、けっして淋《さび》しい個所ではない。それにその時は、毎夜|戒厳令《かいげんれい》のような大規模の非常線が張りつめられて、連中の捜査に疲れた警官も倦《う》まず撓《たゆ》まず必死の努力を継続した。不審訊問はだれかれの差別なく投げられた。些少《さしょう》でも疑わしい者は容赦なく拘引《こういん》された。その網に引っかかっただけでも、おびただしい人数といわれている。しかるに、その間を、たったいま人を殺し、屍体を苛《さいな》み、生血と遊んで、全身絵具箱から這い出したようになっているはずの男だけが、この密網の目を洩れてただの一度も誰何《すいか》されなかったのだ。否、誰何されたかもしれないが、追及すべく十分怪しいと白眼《にら》まれなかったのだ。この点が、そしてこの一点が、全リッパア事件の神秘の王冠といわれている。前後をつうじて数千数百の人間が、街上に停止を命じられ凍烈な質問を浴びせられ、
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