の経験や観察を述べたり、ここの夜で私に直面したさまざまの光景を描いたりしようとは思っていない。ただしかし、実際の場所を知っている私は、この兇猛《きょうもう》な犯罪実話を書くにあたって、特殊の個人的|感興《かんきょう》を覚えるのである。そしてそれは、いくぶんの現実性をもってこの物語を裏打ちするに相違ないと信ずることができる。
ロンドン人は、何人《なんぴと》も新たなる凄慄《せいりつ》なしには、あの晩秋を回顧し得ないであろう。
最後のリッパア事件としていまだに記憶されている、十一月九日、金曜日の夜だった。
もうすっかり冬の化粧をしたロンドンである。一日じゅう離れなかった霧が、夕方ちょっと氷雨《ひさめ》に変わったりして、その晩はことに黒い液体が空間に流れ罩《こ》めたような、湿った暗夜だった。が、新聞町フリイト街からは、深夜の電話によって召集された各社社会部記者と、遊撃《ゆうげき》記者の全部が、沈黙のうちにぞくぞくとこのアルドゲイトにむかって繰り出されつつある。「血《ち》の脅威《テラア》」――ジャアナリズムはいちはやくこの連続的犯行をこう命名していた――が、またもやこの夜、貧窮と汚毒《おど
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