新聞記者ガイ・ロウガン氏に語って、この殺人者は、個々のエロティックな発作的狂乱の場合以外、平常はごく普通の、穏厚な一市民であろうとの意見を述べている。
「彼は、一つの犯行をすまして帰宅して、朝になって、その一時的激情から覚めると、自分が前夜なにをしたか、すこしも記憶していないに相違ない。」
 ウィンスロウ博士はこう言った。
 が、いくら著名な専門家の言でも、事実から見て、これはすくなからず変だと言わなければならない。なるほど、犯人は一事狂者《モノマニアック》で、ある一つの迷執《めいしゅう》に駆られてこの犯行を重ねているということは肯定しうるが、しかし、ウィンスロウ博士が想定しているような、意力の加わらない、いわば夢遊病者のごとき発作的錯乱者が、明白なる殺人の目的の下に、兇器を隠し持って夜の巷《ちまた》をさまようだろうか。事実は、そればかりでなく、「ジャック」の行動のすべては、彼の犯罪が初めから緻密《ちみつ》な計画になるものであることをあますところなく明示している。前回にあげたセントラル・ニュース社に舞い込んだ、人血で書かれた“Jack the Ripper”の署名ある葉書と手紙を、何者かの悪戯《いたずら》でなくたしかに犯人の書いたものと認めれば――実際また、事件が進むにしたがいこの通信は真犯人から出たものと信ぜざるを得ない状勢になってきていた。それほど、そこに書かれた彼の「宣言」は着々忠実な履行《りこう》に移されて現われてきたから――彼は、自分の求める売春婦の犠牲者を何街で発見することができるかその的確な「穴《スパット》」を知り、現実にいかにして接近するかその「商売の約束」につうじ、しかも、犯行ごとにあれほどみごとに警戒線を潜って消えうせているのだ。ここでふたたび問題になるのが、例の彼の「長い黒の外套《がいとう》」である。リッパア事件は、鮮血の颱風《たいふう》のようにイースト・エンドを中心にロンドン全市を席捲《せっけん》した。ジャックは、魔法の外套を着た通り魔のように、暗黒から暗黒へと露地横町《ろじよこちょう》を縫ってその跳躍を擅《ほしいまま》にした。彼の去就《きょしゅう》の前には、さすがのロンドン警視庁も全然無力の観さえあった。こうなると、もうこれは、人事を超越した自然現象のように思われて、初めのうちこそ恐怖に戦《おのの》いてその筋の鞭撻を怠らなかったロンドン市民も、日を経《へ》るにしたがって慣れっこになり、他人事のように感じだし、そこはユウモア好きな英国人のことだから、いつしか新聞雑誌の漫画漫文に、寄席のレヴュウに舞踏会の仮装に、このジャック・ゼ・リッパアが大もて大流行という呑気至極《のんきしごく》な奇観を呈するにいたった。するとまた、この人獣をこういうふうに人気の焦点に祭り上げるのは風教《ふうきょう》に大害あり、第一、不謹慎きわまるとあって反対運動がおこるやら、とにかく、肝心の犯罪捜査を外れた傍《わき》道に種々の挿話を生んだものだが、この、漫画に出てくる「ジャック」、舞台や仮装舞踏会の彼の扮装《ふんそう》は、かならずその、あまりにも有名な「長い黒の外套《がいとう》」を着ることにきまっていた。それほど、この犯人とは切り離すことのできない外套である。彼はこれを、犯行の際はいちじ脱いでかたわらへ置き、「手術」をすますと同時に血だらけの着衣の上からこの外套を着て、それで血を隠し、行人の注意を逃れて平然と往来を歩いて帰宅したものであろうと想像するにかたくない。さもなくて、血を浴びたままの姿でたとえ深夜にしろ、どんな短距離にしろ、道中のできるわけがないからである。そして、この目的のためには、それはたしかに「黒く」かつ「長い」ほうが便利だったに相違ない。イースト・エンドは眠らない町である。男を探す夜鷹《よたか》と、夜鷹をさがす男とが夜もすがらの通行人だ。場末とはいえ、けっして淋《さび》しい個所ではない。それにその時は、毎夜|戒厳令《かいげんれい》のような大規模の非常線が張りつめられて、連中の捜査に疲れた警官も倦《う》まず撓《たゆ》まず必死の努力を継続した。不審訊問はだれかれの差別なく投げられた。些少《さしょう》でも疑わしい者は容赦なく拘引《こういん》された。その網に引っかかっただけでも、おびただしい人数といわれている。しかるに、その間を、たったいま人を殺し、屍体を苛《さいな》み、生血と遊んで、全身絵具箱から這い出したようになっているはずの男だけが、この密網の目を洩れてただの一度も誰何《すいか》されなかったのだ。否、誰何されたかもしれないが、追及すべく十分怪しいと白眼《にら》まれなかったのだ。この点が、そしてこの一点が、全リッパア事件の神秘の王冠といわれている。前後をつうじて数千数百の人間が、街上に停止を命じられ凍烈な質問を浴びせられ、
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