分のアメリカ訛《なま》りがあったと証言している。各国人を相手にする売笑婦の言だから、この点は比較的信をおけるはずだが、ライオンスは、たしかにその男は「アメリカ人か、さもなければ長くアメリカにいたことのある者」に相違ないと、ブラウン氏の前で断言した。
 そして、その交渉を進めている間も、男は、人のくるのを恐れるように、絶えず首を動かして往来の左右に眼を配っていた。リツパア事件で、この辺の売春婦は顫《ふる》えあがっている最中である。ほんとなら、ライオンスもこうして夜|更《ふ》けの危険に身を曝《さら》さずに家を引っ込んでいたいのだが、それでは稼業があがったりだからこわごわ出て来たのだ。しかし、いまその相手の様子を見ているうちに、第六感とでもいうべきものが、しきりにライオンスに警告を発し出した。で、なおも注意すると、男は、人が通るとかならず暗い方を向いて、顔を見られない用心を忘れない。「ジャック」を思いあわせて加速度的恐怖にとらわれたライオンスが、なんとか口実を作って同行をことわろうと考えをめぐらしているところへ、運よく知りあいの同業の女が三人|伴《づ》れで通りかかった。ライオンスは逃げるように男を離れて、その群に加わって立ち去ったというのだ。
 ブラウン氏は、パッカアの見た人相を隠しておいて、どんな男だったとライオンスに訊《き》いてみた。
「当方にもいろいろわかっているが、五十ぐらいの、背の高い、痩《や》せた男だろう? 鬚《ひげ》のある――。」
 女の心証をたしかめるために、わざと反対に鎌《かま》をかけた。「いいえ。三十そこそこの若い人です。身長は普通で、痩せてはいません。がっしりした身体つきでした。いいえ、鬚《ひげ》はありません。」
 パッカアの証言と一致するものがある。
「外套《がいとう》は着ていなかったろうな。」
「着ていました。変に裾《すそ》の長い、黒い外套でした。」
 ブラウン氏は心中に雀躍《こおど》りした。この時から、「長い黒の外套」が秘かに捜査の焦点となったのだが、この「外套《がいとう》」は、ライオンスによれば米国|訛《なま》りの口を利《き》くという。
 あのドルセット街の陋屋《ろうおく》におけるケリイ別名ワッツ殺しの場合のような徹底した狂暴ぶりは、野獣か狂者でないかぎり、いかに残忍な、無神経な、血に餓えた人間であっても、人の皮を被《かぶ》っている以上とうてい示し得ないところと思考される。ここにおいて「斬り裂くジャック」は精神病者に相違ないとの見込みが、まず必然的に立てられたのだった。すなわち、病院か家庭の檻禁室を逃亡した狂人か、さもなければ、全快という誤診の下に退院を許された者、もしくは、じっさい一時全快して医者を離れ、その後再発したものの所業《しょぎょう》であろうというのだ。これはじつに、都会に猛獣が放たれているような、戦慄《せんりつ》すべき想像だが、こういう、早まって退院を許された狂人の犯罪は、その例に乏《とぼ》しくない。が、これはようするに素人《しろうと》の臆測で、最初のリッパア事件突発と同時に、警察は早くもこの点に着眼し、全英はもちろん、広く欧州大陸から南米にまで照会の電報を飛ばして、精神病院の有無《うむ》、退院した狂暴性患者のその後の動静などを集めたのだったが、その後たった一つ前回に掲げたモスコーからの通知があっただけで、なんらめぼしい手がかりは獲《え》られなかったのである。といって、日夜種々雑多な人間が、満潮時の大河口のように渦を巻き、流れを争う世界最大の貧民窟だ。正確な人口すらわかっていないのだから、いつどんな「猛獣」が潜行してきていないとはかぎらない。しかし、「斬裂人《リッパア》ジャック」が狂人だったとしたら、この犯罪はもっと気まぐれであり、より非組織的でなければならない。それは、すこしでも精神異常者なら、たとえ犯跡は巧妙に晦《くら》ましても、なにかのことでいつかは尻尾を掴《つか》ませるはずである。もちろん一口に精神病といっても、幾多の類型と階梯《かいてい》があるが、種々な場合に現われた事実を総合すると、どうもこのジャックは、狂人どころか普通人、あるいはそれ以上の明識《レイション》あるものとしか思えないのだ。またかりに精神病者としても、彼はたくみにその病的特徴を隠していて、学術的に、はたしていかなる種類と程度の患者と認めていいのか、この点については専門家の意見が区々に別れて、ついに纏《まと》まるところを知らなかった。変態性欲者ちゅうの一種の色情倒錯《しきじょうとうさく》狂でかつ癲癇性激怒《てんかんせいげきど》の発作を併有《へいゆう》するものに活痰ネいと、一部の権威ある犯罪学者によって主張され、動機の説明としてはもっぱらこの説が行なわれた。精神病理学者として令名あるフォウブス・ウィンスロウ博士は、往訪の
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