セット街ミラア・コウトの自宅で惨殺されたケリイ一名ワッツの死|屍《し》のごときは、ほかのすペての犯行が戸外で行なわれたのと異なり、これは被害者の寝室が現場だったので、怪物が、長く悠々と居残ってその変態癖を遺憾《いかん》なく満喫し、「血の饗宴《きょうえん》」を楽しむだけの時間と四壁を持ったせいか、胸部腹部はなんら人体の原型をとどめておらず、室内は、まるで屠《と》殺場の腑分《ふわけ》室のような光景を呈していた。事実、この事件は、全犯行を通じて白熱的に最悪のものだったが、報知を受け取って踏み込んだ警官の一行は、その予想外に酸鼻《さんび》な場面と、鬱積《うっせき》する異臭にとつじょ直面したため、思わずみんな一個所にかたまって嘔吐《おうと》したという。この言語道断ネ狼籍《ろうぜき》、徹底した無神経ぶりは、当時の新聞をして「恐怖の満点」と叫ばしめ、「人性の完全な蹂躙《じゅうりん》」と唖然《あぜん》たらしめている。
 こうなると、もうこれは、自由自在に出没|横行《おうこう》する悪鬼《デイモン》の仕業《しわざ》だと人々は言いあった。じっさい、これに匹敵《ひってき》する残虐な犯例は、世界犯罪史をつうじてちょっと類を求めがたいのだが、なかんずくここに留意《りゅうい》すべきことは、前々からいうとおり、この犯人はホワイトチャペル付近の売春婦だけを殺したという一事である。これこそ、この犯罪の動機を暗示する重要な特異性ではないだろうか。そこに、彼の「言葉」といったようなものを読み取ることはできないだろうか。じつに犯人ジャックは、この特徴ある犯行をもって一つの意思を発表し、世間に話しかけたのだ。
 かれの行為は、何事[#「何事」に傍点]か大声に主張している。この「何事」を検討するところに、全リッパア事件の謎を解く合鍵語《キイ・ワアド》が潜《ひそ》んでいると思う。とにかく、「ジャック・ゼ・リッパア」なる人物は、なにかの理由から、イースト・エンドの売春婦をひいてはロンドン全体を、その人心を、社会を、震撼《しんかん》し戦慄《せんりつ》させるのが目的だったに相違ない。
 初冬のロンドンには、煤煙《ばいえん》を交えた霧の日がしきりにつづく。
 明けても暮れても、人は斬裂人《リッパア》の噂で持ちきりだった。
 すると、話はちょっと後退するが、バアナア街事件のあった翌早朝のことだ。

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 刑事部捜査課員を総動員して、フォルスタア氏が率いて現場に出張したあと、連絡を取るために、大ブラウンが留守師団長格で警視庁に居残っていたところへ、若い女があわただしく飛び込んできた。
 ブラウン氏は、現場のフォルスタア氏から刻々かかってくる報告電話を受理するのに忙しかったが、女がなにかリッパア事件に関することを言いにきたと聞いて、ただちに私室へ招じ入れて面接した。
 エセル・ライオンスといって、その服装態度からブラウンが一眼で鑑別したとおり、彼女はイースト・エンドを縄張りにする辻君《つじぎみ》の一人だった。ひどく昂奮していて、ブラウン氏を見ると、「何年ぶりかに父親にでも会ったように」いきなり抱きつこうとした。ブラウン氏は、職掌柄《しょくしょうがら》こういう激情的な巷《ちまた》の女を扱い慣れているので、すぐに得意の下町調《カクネイ》でくだけて出ながら、ライオンスの口からその話というのを引き出した。
 ことわっておくが、前夜犯人を見たというパッカアの証言は、このときすでに、バアナア街に行っているフォルスタアからの電話で、ブラウンには委細《いさい》つうじていたが、朝早くだから、まだ新聞に発表されない前で、一般にはなんら知れていなかったのだ。
 このことを頭に置いて、ライオンスの言うところを聞くと、こうである。
 昨夜また、バアナア街に斬裂人《リッパア》が現われたと聞いて、ライオンスは思い切って自分の経験を述べに出頭したのだが、それによると、彼女は大変な命拾いをしている。
 数日前の深夜、例によって相手を探してホワイトチャペルのピンチン街を歩いていると、むこうから来かかった一人の男が、知り合いらしく帽子に手をかけて挨拶した。これは、男のほうから街上の売春婦を呼びとめる場合の、一つのカムフラアジュ的常法である。ピンチン街は、ユダヤ人の小商人の住宅などが並んでいて、入口が円門《アウチ》のようになっている家が多い。このころのロンドンだからあいかわらず霧がかかってはいたが、霧の奥に月のある晩だったので、二人は、その一つのアウチの下に人目を避けて立話しした。
「どこか君の知ってる静かなところへ伴《つ》れてってくれないか。」
 男はこう言ったという。言いながらズボンのポケットを揺すぶって、金を鳴らして聞かせた。このとおり金を持っているというのだ。
 ここでライオンスは、この男の語調には多
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