身分証明を求められ、即刻身体検査を受けているのに――眼ざすただ一人の人間だけついにこの法の触手にふれることなくして終ったとは、なんという皮肉であろう!
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「斬裂人《リッパア》のジャック」は、何か[#「何か」に傍点]のことでホワイトチャペル界隈《かいわい》の売春婦全部を呪い、相手選ばずその鏖殺《ほうさつ》を企てたのだというのが、いま一般に信じられているジャックの目的である。憎悪と怨恨《えんこん》に燃えて、その復讐欲を満たすために、かれはあれほど血に飽きるところを知らなかったというのだ。その根本の原因は何か! いまとなってはただ、そこにたんなる推定が許されるにすぎない。ジャックは、この付近の売春婦から悪性の梅毒でも感染し、それが彼の人生を泥土《でいど》に突き入れたのであろう。すくなくとも、彼はそう感じて、その自暴自棄《じぼうじき》の憤怒《ふんぬ》――かなり不合理な――が彼を駆って盲目的に、そして猪進《ちょしん》的に執念《しゅうねん》の刃を揮《ふる》わせ、この酷薄な報復手段を採《と》らしめたに相違あるまい。病毒の媒体としてもっとも恐るべきイースト・エンドの哀れな娼婦の一人が、肉体的に、また精神的に、ジャックの一生をめちゃくちゃにしたのだ。悪疾に侵されたかれの頭脳において、一人の罪は全般が背負うべきものという不当の論理が、ごく当然に醗酵《はっこう》し生長したかもしれない。
その間も、ロンドン警視庁へは海外からの情報がしっきりなしに達していた。
このすこし以前、北米テキサス州で、冬から早春にかけて、リッパア事件に酷似《こくじ》した犯罪が連続的に行なわれたことがあった。もっとも、ロンドンのほど野性に徹した犯行ではなかったが、同じような性器の解剖が屍《し》体に加えてあった。この被害者は、限定的に、同地方に特有の黒人の売笑婦だった。
犯人は外国生れの若いユダヤ人であるといわれていたが、もちろん自余《じよ》のことはいっさい不明で、やはり捕まっていない。ロンドンでリッパア事件が高潮に達した時、テキサス州の有力新聞アトランタ・カンステチュウション紙は、この黒婦虐殺事件の顛末《てんまつ》を細大掲げて両者の相似点を指摘し、ジャック・ゼ・リッパアは、このテキサスの犯人が渡英して再活躍を始めたに相違ないと論じたが、その当否はとにかく、ロンドンでリッパア騒動が終塞《しゅ
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