も、日を経《へ》るにしたがって慣れっこになり、他人事のように感じだし、そこはユウモア好きな英国人のことだから、いつしか新聞雑誌の漫画漫文に、寄席のレヴュウに舞踏会の仮装に、このジャック・ゼ・リッパアが大もて大流行という呑気至極《のんきしごく》な奇観を呈するにいたった。するとまた、この人獣をこういうふうに人気の焦点に祭り上げるのは風教《ふうきょう》に大害あり、第一、不謹慎きわまるとあって反対運動がおこるやら、とにかく、肝心の犯罪捜査を外れた傍《わき》道に種々の挿話を生んだものだが、この、漫画に出てくる「ジャック」、舞台や仮装舞踏会の彼の扮装《ふんそう》は、かならずその、あまりにも有名な「長い黒の外套《がいとう》」を着ることにきまっていた。それほど、この犯人とは切り離すことのできない外套である。彼はこれを、犯行の際はいちじ脱いでかたわらへ置き、「手術」をすますと同時に血だらけの着衣の上からこの外套を着て、それで血を隠し、行人の注意を逃れて平然と往来を歩いて帰宅したものであろうと想像するにかたくない。さもなくて、血を浴びたままの姿でたとえ深夜にしろ、どんな短距離にしろ、道中のできるわけがないからである。そして、この目的のためには、それはたしかに「黒く」かつ「長い」ほうが便利だったに相違ない。イースト・エンドは眠らない町である。男を探す夜鷹《よたか》と、夜鷹をさがす男とが夜もすがらの通行人だ。場末とはいえ、けっして淋《さび》しい個所ではない。それにその時は、毎夜|戒厳令《かいげんれい》のような大規模の非常線が張りつめられて、連中の捜査に疲れた警官も倦《う》まず撓《たゆ》まず必死の努力を継続した。不審訊問はだれかれの差別なく投げられた。些少《さしょう》でも疑わしい者は容赦なく拘引《こういん》された。その網に引っかかっただけでも、おびただしい人数といわれている。しかるに、その間を、たったいま人を殺し、屍体を苛《さいな》み、生血と遊んで、全身絵具箱から這い出したようになっているはずの男だけが、この密網の目を洩れてただの一度も誰何《すいか》されなかったのだ。否、誰何されたかもしれないが、追及すべく十分怪しいと白眼《にら》まれなかったのだ。この点が、そしてこの一点が、全リッパア事件の神秘の王冠といわれている。前後をつうじて数千数百の人間が、街上に停止を命じられ凍烈な質問を浴びせられ、
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