せつな》彼の神経を萎縮《いしゅく》させて、とっさの判断、敏速|機宜《きぎ》の行動等をいっさい剥奪《はくだつ》し、呆然として彼をいわゆる不動|金縛《かなしば》りの状態に、一時|佇立《ちょうりつ》せしめたのだと省察することができる。これは十分の理解と同情を寄せうる心理で、なにも格別パッカアが臆病な男だったという証拠にはならないが、それにしても、つぎに「ちょうどその時店に自分のほか、人がいなかった」ため「店をあけて飛び出すわけにもゆかなかった」というのは、事態の逼迫《ひっぱく》を認識せず、物の軽重を穿《は》きちがえた、横着《おうちゃく》とまではいかなくとも、いささか自己中心にすぎて、かなり滑稽《こっけい》な弁辞であると断ぜざるを得ない。ロンドン中が「斬り裂くジャック」の就縛《しゅうばく》を熱望して爪立ちしていることは、パッカアはもっとも熟知していたはずの一人である。しかも彼は、九月三十日以来、犯人の顔を見た地上ゆいいつの人間として、全英の新聞と話題の大立物《おおだてもの》になっていた矢先だ。その手前もある。不意のことで、愕《おどろ》いたのは当然としても、もう少しそこになんとか気のきいた応急策の施《ほどこ》しようがあったはずだと、刑事達をはじめ公衆は切歯扼腕《せっしやくわん》して口惜しがったが、やがでその憤懣《ふんまん》は非難に変わって、翕然《きゅうぜん》とパッカアの上に集まった。無理もないが、なかには口惜しさのあまりひどいことを言いふらすやつが出て来て、パッカアは「ジャック」の共犯者である。だから故意に逃がしたのか、さもなければ、思うところあって、初めからでたらめを言っているのだことの、いや、じつはパッカアこそはジャックその人に相違ないことのと、とんでもない噂《うわさ》までまことしやかに拡がったりした。とにかく、これによってパッカアは、それほど有力な容疑者――というより百パーセントに確定的な犯人――の身柄に偶然接近しえた、最初の、そしておそらくは最後の絶好機会を恵まれていながら、その怯儒《ォょうだ》と愚鈍からみすみすそれを逸《いっ》し去ったのは、すくなくともこの場合、当然身を挺《てい》して警察と公安を援助すべき公共的義務精神の熱意と果敢さにおいて、いくぶん欠除するところあるをいなめない、つまりあまり望ましくない市民だというので、なにしろイギリスのことだからいろいろとやかま
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