しい議論がおこり、可哀そうに、果物屋の主人公はこのところすっかり男をさげてしまった。が、結局、あとからはなにを言ってもはじまらない。これらパッカアの失態にたいする叱責《しっせき》のすべては、いわば溢《あふ》れた牛乳の上に追加された無用の涙にしかすぎなかった。機会は、それが絶好のものであればあるほど、去る時は遠心的に遠く去るものである。そして、多くの場合、ふたたび返ってはこない。「電車が犯人を乗せて町のむこうに消えました」とはうまいことを言った。この騒動中の騒動に頓着なく、犯行はその後も依然として間歇《かんけつ》的に頻発《ひんぱつ》したが、犯人そのものの影は、その時消え去って以来、いまだに消えたまんまなのだ。
はじめての驚天《きょうてん》的犯罪の目的は子宮の蒐集《しゅうしゅう》にあるという説が有力だった。それも、迷信や宗教上の偏執《へんしつ》に発しているものではなく、それかといって、たんに特殊の集物狂《コレクトマニア》の現象でもない。立派に営利を目的とする一つの冷静な企業行為だというのだ。子宮を取って売る。子宮は売れるのである。肝臓や、子宮、脳漿《のうしょう》が、ある方面にたいして商品としての価額を持っているとは、驚くべきことだが、事実である。しかし、この、「長い黒の外套《がいとう》」を着て闇黒《あんこく》に棲《す》む妖怪は、心願《しんがん》のようにその兇刃《きょうじん》を街路の売春婦にのみ限定して揮《ふる》ったのだ。子宮を奪うためならなにも売春婦にかぎったわけではなく、普通の婦人のほうがより[#「より」に傍点]健康な、より清潔な子宮をもっていて、商品としての目的にも適したはずだから、この子宮売買説は、「斬り裂くジャック」の場合当てはまらないといわなければならない。もっとも、未知の女に接近してこれを殺し、子宮を奪うためには、この種の女が一番早道だから、それで自然、とくに売春婦を選んだような観を呈《てい》したのだといえば、一応説明にならないことはないが、ジャックは、ただ相手の娼婦を殺しただけでは満足せず、あたかも報復の念|迸溢《ほういつ》して一寸刻《いっすんきざ》みにしなければあきたらないかのように、生の去ったのちの肉塊にさえ、その情欲の赴《おもむ》[#ルビの「おもむ」は底本では「おも」と誤植]くままに歓《かん》を尽してひそかに快を行《や》っているのだ。ことに前掲ドル
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