起る。歩哨一人、鹿の皮を被った合爾合《カルカ》姫の前に立ち、二名の兵士、姫の左右から抜身の槍を突きつけて、下手からはいって来る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
歩哨 ただいま、かような怪しの者が、御陣屋近く忍び寄るところを、発見いたしました。こいつ! (と鹿の皮を引き剥ぎ、姫を前へ押しやる)
[#ここから3字下げ]
合爾合《カルカ》と成吉思汗《ジンギスカン》は、凝然《ぎょうぜん》と眼を見詰め合う。長い間。一同無言。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (侮蔑を罩《こ》めた合爾合《カルカ》姫の視線に負けて、眼を外らしつつ)よく、よく来られた。しばらくぶりだねえ、合爾合《カルカ》。
速不台《スブタイ》 やあ、来た、来た。合爾合《カルカ》様、成吉思汗《ジンギスカン》さまは、今夜という今夜をどんなにかお待ちなされたことか。
汪克児《オングル》 (合爾合《カルカ》姫の手を取る)さ、さ、花嫁さまは、こちらへ、こちらへ――。
合爾合《カルカ》姫 (その手を振り放って、成吉思汗《ジンギスカン》の前へ進む。憎悪に顫えて)お久しぶりでございます、成吉思汗《ジンギスカン》様。今あなたさまのお名前は、砂漠よりも広く、抗愛《こうあい》山脈よりも高い勢い、砂漠を徘徊《はいかい》する虎と申せば、あなた様のことと伺いましたが、偉い大将におなり遊ばしたものでございます。(皮肉を罩めて)昔の合爾合《カルカ》は、こうして今、敗軍の将の妻として、軍門に引かれてまいりました。(感きわまって膝を突き、心を絞って)その代り、どうぞ良人をはじめ、札荅蘭《ジャダラン》族一同をお助け下さいますよう。
[#ここから3字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》は打たれて、黙して頷首《うなず》く。一同席に就く。兵卒ら、酒肴など運び来《きた》る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
汪克児《オングル》 (姫を押しやって成吉思汗《ジンギスカン》の隣りへ坐らせる)さ、花嫁さまはここへ。なにもそう恥かしがることはない。ようよう、似合いの御夫婦、内裏雛《だいりびな》! (手を拍つ)
[#ここから3字下げ]
みな笑い崩れる。成吉思汗《ジンギスカン》と合爾合《カルカ》姫は中央の篝火の正面に、並んで床几《しょうぎ》に掛ける。猛虎|太陽汗《タヤンカン》は悠然と成吉思汗《ジンギスカン》の傍に坐る。汪克児《オングル》は独りで戯《ふざ》けまわる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (上機嫌に)今日第一の殊勲者は、木華里《ムカリ》だ。それ、木華里《ムカリ》、盃《さかずき》を与《や》るぞ。
木華里《ムカリ》 いえ、どうぞそのお盃は、まず合爾合《カルカ》さまへ。
成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、そうだったな。花嫁にささんでは、この場の固めがつかない。合爾合《カルカ》、あれ以来あなたを慕いつづけてきた成吉思汗《ジンギスカン》の盃です。快く受けて下さい。
汪克児《オングル》 姫一人を思って、今まで独身《ひとりみ》をお守りなされた大王様のおさかずきじゃ。めでたい、めでたい!
合爾合《カルカ》姫 (覚悟を決めた態)はい。それでは、頂戴いたします。
[#ここから3字下げ]
小姓|巴剌帖木《パラテム》が酌しようとする。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
木華里《ムカリ》 今日第一の殊勲者というお言葉に甘えて、お酌は、かくいう私が――。
[#ここから3字下げ]
一同爆笑する中に、姫は、止むなく涙とともに盃を受けて、返す。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 おれはどんなにこの宵を待ち望んでいたことか。皆も笑ってくれるな。砂漠の虎だって、情を解しないものではない――天幕《てんと》に照る月、兜に置く露、この長の年月、ただの一日もあなたを忘れたことはなかった。
[#ここから3字下げ]
合爾合《カルカ》姫は黙然と顔を外向《そむ》けている。四天王ら、口々に、「おめでとうございます。」「お喜び申し上げます。」などと祝いを述べて、いっせいに乾杯する。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、お前たちも飲め。これ、者勒瑪《ジェルメ》、合爾合《カルカ》姫は長の籠城で、さぞ不自由をしたことだろう。痛々しいかぎりだ。羊を屠《ほふ》れ。馬乳酪《カンメズ》を取り出せ。好豆腐《メイドウフ》も持って来い。ありったけの馳走を姫の前に並べろ。
[#ここから3字下げ]
声に応じて、種々《いろいろ》な料理が運び
前へ 次へ
全24ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング