イパアトル》が泰赤宇徒《タイチュウト》人に攻められた時、あの危急存亡の場合に僕を助けてくれたのは、君だった。羊毛を積んだ車の中に、三日三晩僕を匿って、君がその番をしてくれた――。
合爾合《カルカ》姫 泰赤宇徒《タイチュウト》の兵隊が、あなたの隠れていらっしゃる羊毛のなかへ、何度も剣を突き刺すので、妾、はらはらしましたわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 それより、滑稽だったのは、いくら捜してもいないもんだから、泰赤宇徒《タイチュウト》の奴らが君の瑣児肝失喇《ソルカンシラ》の荘園を出て行ってからさ。やっと車から這い出して、いや、食べた、食べた。なにしろ、三日目に食い物にありついたんだからねえ。まったく、あの時の羊の肉は美味《うま》かったなあ。今でも忘れないよ。
合爾合《カルカ》姫 ええ、そうそう。あなたったら、いくらでも召し上るんですもの。妾、お腹《なか》がどうかなりはしないかと思って、ずいぶん心配しましたわ、ほほほほほ。
成吉思汗《ジンギスカン》 あ、笑った! あ、笑った! 合爾合《カルカ》が笑った。とうとう合爾合《カルカ》を笑わせたぞ、あははははは。(ふと心づいて冷静に月を仰ぐ)ふむ、おれはいったい何を言っているんだ。ああ、向うの山の端が、かすかに白みかけて来たぞ。今日はあの峠を越えて、乃蛮《ナイマン》国へ攻め入るのだ。都の和林《カラコルム》を出てから、もう二月あまりの旅だ。人も馬も、すこしの疲れも知らない。ありがたいことだ――うむ、そうだ。陣中日記でもつけるとしよう。
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と呟きつつ、軍装の内懐から一冊の帳面を出し、月の光りで、いつまでも黙って読み耽っている。追憶で感傷的になった合爾合《カルカ》姫の涕泣《すすりな》きが高まる。成吉思汗《ジンギスカン》は何も耳に入らないように、一心に読みつづける。長い長い間。合爾合《カルカ》姫は、懼《おそ》れていたこともなく夜が明けたので、ようやく成吉思汗《ジンギスカン》の意を悟り、静かな泣き声を放って寝台に伏す。月はすっかり落ち、もう砂漠の彼方に、早い蒙古の朝ぼらけが動き初める。今まで一望の砂原と見えたあたりに、斡児桓《オルコン》の川水が光って見えはじめる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ふと暁の色に気づくが、振り返りもせずに)ああ、夜が明ける。
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