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合爾合《カルカ》姫 (素っ気なく)存じません。
成吉思汗《ジンギスカン》 そうかなあ。あの森を忘れたのかなあ。僕あよく覚えてるがなあ。
合爾合《カルカ》姫 (うっかり釣り込まれて、低声《こごえ》に)黒雲の森――。
成吉思汗《ジンギスカン》 (膝を打って)そうそう! 黒雲の森、黒雲の森! あの森の端れに、小川のあったのを思い出さないかい?
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寝台に突っ伏して、姫は無言。
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成吉思汗《ジンギスカン》 忘れっぽいんだなあ。あの、そら、僕がよく羊の群れを追って、水を飲ませに行った川さ。岸に水草が一ぱい生えて、春さきなんか、ぞっとするほど冷い水だった――月夜の晩は、あの小川が銀の帯のように光って家の窓からよく見えたことを思い出すよ。懐しいなあ。
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合爾合《カルカ》姫は冷い沈黙をつづける。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (突然笑いこける)ははははは、そうそう、君は手桶を抱えて、よくあの川へ水を汲みに来たものだねえ。そうしたら、いつか、ほら、その桶を川に流してさ――。
合爾合《カルカ》姫 (相手になるまいとつとめながら、つい引き込まれて)桶じゃありませんわ。羊の皮袋でしたわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 いや、桶だよ。
合爾合《カルカ》姫 いいえ、羊の皮ぶくろですわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 そうだったかしら。なんでもそいつを流れに取られて、君は岸に立ってしくしく[#「しくしく」に傍点]泣いていたっけ。あの時、君は十歳《とお》ぐらいだったかしら。そうだ、僕はたしか十七の春だったからなあ――あの森も、小川も、きっとまだあのままだろうよ。帰ってみたいなあ。
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姫はかすかに涕泣《すすりな》きを洩らす。長い間。
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成吉思汗《ジンギスカン》 思い出したぞ。僕はあの時、川へ飛び込んで、流れてゆく皮袋を拾い上げた――。
合爾合《カルカ》姫 (顔を上げる。頬に涙が光っている)ええ、靴をお穿きになったまんまで――。
成吉思汗《ジンギスカン》 そう! そうしたら、君ったら、ずぶ濡れになった僕が、川から這い上った恰好がおかしいと
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