ヤトラカン・サミ博士の椅子
牧逸馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)珈琲《コーヒー》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小冊子的|煽情《せんじょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)じゃあまん[#「じゃあまん」に傍点]
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1
マカラム街の珈琲《コーヒー》店キャフェ・バンダラウェラは、雨期の赤土のような土耳古《トルコ》珈琲のほかに、ジャマイカ産の生薑《しょうが》水をも売っていた。それには、タミル族の女給の唾《つば》と、適度の蠅《はえ》の卵とが浮かんでいた。タミル人は、この錫蘭《セイロン》島の奥地からマドラスの北部へかけて、彼らの熱愛する古式な長袖着《キャフタン》と、真鍮《しんちゅう》製の水甕《みずがめ》と、金いろの腕輪とを大事にして、まるで瘤牛《ジイプ》のように山野に群棲《ぐんせい》していた。それは「古代からそのままに残された人種」の一つの代表といってよかった。彼らは、エルカラとコラヴァとカスワとイルラの四つの姓閥《ケイスト》からできあがっていた。そして、そのどれもが、何よりも祖先と女の子を尊重した。祖先は、タミル族に、じつは彼らが、あの栄誉ある古王国ドラヴィデアの分流であることを示してくれるのに役立ったから、彼らはその祭日を忘れずに、かならずマハウェリ・ガンガの河へ出かけて行って、めいめいの象といっしょに水掃礼を受けた。が、女の子を歓迎したのは、そういう民族的に根拠のある感情からではなかった。女は、彼らにとって、家畜の一種としての財産だったからだ。女の子が生まれると、彼らはそれを、風や雑草の悪霊《あくりょう》から保護して育てて、大きくなるのを待ってコロンボの町へ売りに出た。この、タミル族の若い女どもを買い取るのは、おもにそこの旅客街のキャフェだった。女給にするのだ。ことに、ポダウィヤの酋長《しゅうちょう》後嗣選挙区にある、ポダウィヤ盆地産の女は値がよかった。なぜといえば、イギリス旦那《マスター》の「文明履物《かわぐつ》」のようなチョコレート色の皮膚と、象牙《ぞうげ》の眼と、蝋引《ろうび》きの歯、護謨《ごむ》細工のように柔軟《やわらか》な弾力に富む彼女らの yoni とは、すでに英吉利旦那《イギリスマスター》の市場においても定評がなかったか?
2
We beg to inform Travellers to Ceylon that we issue, under special arrangements with the Governments of Ceylon and of India and Burma, tickets over all Railway Lines, and keep complete and detailed information of everything pertaining to travel in Ceylon, India and Burma−.
こういう、暑い夜の冒険を暗示する旅行会社の広告文書である。この小冊子的|煽情《せんじょう》に身をあたえて、せいろんへ、せいろんへ、せいろんへ、山高帽《ポラア・ハット》をへるめっとに替えた英吉利《イギリス》人が、肩からすぐ顔の生えているじゃあまん[#「じゃあまん」に傍点]が、|あらまあ《オウ・マイ》と鼻の穴から発声する亜米利加《アメリカ》女が、肌着《はだぎ》を洗濯《せんたく》したことのない猶太《ユダヤ》人が、しかし、仏蘭西《フランス》人だけは長い航海を軽蔑《けいべつ》して、本国で葡萄《ぶどう》酒のついた口ひげをていねいに掃除しているあいだに各国人を拾い上げたお洒落《しゃれ》な観光団が、トランクの山積が、写真機が、旅行券が、信用状が、せいろんへ、せいろんへ、せいろんへ――だれが言い出したともなく、一九二九年の旅行の流行《モウド》は、この新しく「発見されたせいろんへ」と、ここに一決した形で、いまのところ、せいろんは、すべての粋《シック》な旅行の唯一の目的地になりすましている。が、この島は何も今年出現したわけではなくドラヴィデア王国の古世から実在していたので、その証拠には、エルカラとコラヴァとカスワとイラルから成る多美児《タミル》族が、カランダガラの山腹に、峡谷に、平原に、カラ・オヤの河べりに、白藻苔《セイロン・モス》の潰汁《かいじゅう》で、和蘭更紗《オランダさらさ》の腰巻《サアロン》で、腕輪で、水甕《みずがめ》で、そして先祖の伝説で、部落部落の娘たちをすっかり美装させ、蠱化《こけっと》させ、性熟させて、ようろっぱの旦那《だんな》方が渡海してくるのを、むかあしから、じいっと気ながに待っていた。
錫蘭《セイロン》島――東洋の真珠――は、その風光の美と豊富さにおいて、他にこれを凌駕《りょうが》するものなし。赤道を北に去ること四百マイルにして、中部以南はいささか暑さに失するきらいありといえども、それも、つねに親切なる涼風に恵まるるため、決して他国人の想像するほどにてはあらず。ことに、一歩北部連山地方にいたらんか、その温候は四季を通じて倫敦《ロンドン》の秋を思わしめ、自然の表情、またこの山岳部にきわまるというべし。途中、古蒼《こそう》の宗教都市カンデイあり。史的興味と東洋色の極地を探ねて、遠く白欧より杖《つえ》をひく人士、年々歳々――うんぬん。
コロンボ市はもちろん、カンデイ市および丘郡《ヒルごおり》のニューラリアには「こんなところにこんな!」と驚く壮麗なホテルがあって、それぞれ穏当な値段で訪問者に「旅の便宜」をあたえている。だから、せいろんは、いまでは、時計ばかり見て急ぐ寄港者よりも、欧羅巴《ヨーロッパ》の公休を日限いっぱいに費やそうという長期滞留の旅客のほうを、はるかにたくさん持つ。以下はこの錫蘭島の提供する吸引物《アトラクション》のほん[#「ほん」に傍点]のすこしの例――豪華な見物自動車。十一人で十一か国語を話し、しかもあんまりチップを期待しない奇跡的案内者組合。日光と雨量。植物帝国《ジャングル》への侵入。象。豹《ひょう》。野牛。自然豚《ワイルド・ボア》。鹿《しか》。土人娘。これらへの鉄砲による突撃。アヌラダプラとポロナルワの旧都における考古学の研究。幾世紀にわたる|せいろん人《セイロニイズ》独特の灌漑《かんがい》術。旅行記念物《ヌメントウ》の収集。宝石掘り。青玉石の洪水《こうずい》。鼈甲《べっこう》製品の安価。真鍮と銀の技能。そしてタミル族の女。
一つの注意――日中正午前後は、ちょっとの外出にも、東印度帽《ソラ・タピイ》――ソラという樹木の髄で作った一種の土民|笠《がさ》――をかぶるか、または洋傘《こうもり》をさすかして、正確に太陽の直射を拒絶すべきこと。あなた自身の利益のために。
旅行季節――十一月の後半から三月中旬までを最適とす。四月と五月は炎暑。六月、九月は南西の貿易風。十月、十一月は北東貿易風。同時に降雨期。
特別の注意――東洋旅行にたいがい付属する数々の不便不快は、せいろんではすくない。西ようろっぱにおけると同じに、生命も財産もきわめて安全である。白い治下に黒い暴動などあり得るわけはない。旅行者の発見するものは、心臓的な歓迎と、微笑と、丁重《ていちょう》だけだ。だから、白人の旅行者は、いっそう気をつけて、黒い神経にさわるような言動はいっさいつつしんでもらいたい。態度の優美は「大いそぎの文明国」でよりも、かえってこの「怠慢な東洋」で完全に実行されている。で、みんな静かに、しずかに動き回ること――うんぬん。
と、これらのすべては、前提旅行会社が白い人々に対して発している心得《ノウテス》やら|お願い《レクエト》やらだが、そこで、欧羅巴《ヨーロッパ》の旅行団は、このことごとくを承知したうえで、せいろんへ、せいろんへ、せいろんへ、すうつ・けいすの急湍《きゅうたん》が、かあき色|膝《ひざ》きりずぼんの大行列が、パス・ポートが、旅人用手形帳《トラヴェラアス・チェッキ》が、もう一度、せいろんへ、せいろんへ、せいろんへ――無作法な笑い声のあいだから妖異《ようい》な諸国語を泡立《あわだ》たせて、みんなひとまず、首府コロンボ港で欧羅巴からの船を捨てた。
すると、同市マカラム街の珈琲《コーヒー》店キャフェ・バンダラウェラでは、タミル族の女給どもを多量に用意して、この「旦那《マスター》」方の来潮に備えていたのだ。
多美児《タミル》族の女たちは昼は、暗い土間の奥から行人《こうじん》に笑いかけたり、生薑《しょうが》水をささげてテーブルへ接近したり、首飾りを手製するために外国貨幣をあつめたりした。そして、夜は、籐駕籠《パランキン》に揺られて英吉利《イギリス》旦那のもとへ通ったり、ひまな晩は、馬来竹《マライ・ラタン》で笊《ざる》を編んで、土人市場のアブドの雑貨店へ売り出した。
3
「また来てる」
「どこに」
「あすこに」
「あら! ほんと」
キャフェ・バンダラウェラで、タミル種族の女給たちが、こんなことを言いあった。
マカラム街は「堡砦区《フォート》」と呼ばれるコロンボ市の中心に近く「奴隷の湖」をまえにしている欧風の散歩街だった。コロンボは、この王冠植民地《クラウン・コロニー》の王冠《クラウン》で、そして、それは、前総督ヒュー・クリフォード卿《きょう》によれば「東洋のチャーリン・クロス」でもあった。各会社大客船の寄港地。貨物船による物資の集散。濠州《ごうしゅう》、あふりか、支那《しな》、日本への関門。そうです。十六世紀に、葡萄牙《ポルトガル》人がここの海岸へ城塁を築きました。それを、あとから和蘭《オランダ》の征服者が改造しました。そしておらんだ人は、いま市場区《ペタア》のあるところを自分たちの住宅街ときめて、市内湖に浮かぶ「奴隷の島」で、土民を飼い慣らしました。が、いぎりす旦那《マスター》が見えるようになってから、治世は一変しました。英吉利旦那は、和蘭の城邑《パアジャア》さんなんかとはすっかり肌あいが違って、ものやさしいことが好きで、不思議にも、奴隷牧畜がきらいでした。で、堡砦《フォート》は土へ還って、そのあとに、停車場と郵便局と病院と大学と教会と、リプトン製茶会社とYMCA会館とが、植物のように生え出しました。市場区《ペタア》はいま、あらゆる東洋的な土器と石器と竹器と、平和と柔順と汗臭《かんしゅう》との楽しい交歓場《よろこびのにわ》でしかありませんし、むかしの「奴隷島」では、馬来《マライ》人の家族とあふがん族の家庭が、椰子《やし》の葉で葺《ふ》いた庇《ひさし》の下で、ぼろぼろのお米を噛《か》みしめて、一晩じゅう発達した性技巧を弄《ろう》して、そのお米の数ほども多い子供を産んで、つまり、一口には、皆がみな、いぎりす旦那《マスター》の御政治をこころの底から讃《ほ》めたたえて、この区域から立ち昇るWARNという感謝の声々が一つ一つ、忠実な銀蠅《ぎんばえ》に化けて、あるものは「奴隷の湖」を越してマカラム街に櫛比《しっぴ》する珈琲《コーヒー》店の食卓へ、またはホテル皇太子《プリンス》の婦人便所へ、他の一派は、丘の樹間に笹絹《レース》のそよぐ総督官舎の窓へと、それぞれに答礼使の意図をもって、ぶうん、ぶうんと飛行して行った。
そのマカラム街には、赫灼《かくしゃく》たる陽線がこんな情景を点描していた――。
紺青《こんじょう》に発火している空、太陽に酔った建物と植物、さわるとやけどする鉄の街燈柱、まっ黒に這《は》っているそれらの影、張り出し前門《ファサード》の下を行くアフガン人の色絹行商人、交通巡査の大|日傘《ひがさ》、労役牛の汗、ほこりで白い撒水《さっすい》自動車の鼻、日射病の芝生《しばふ》、帽子のうしろに日|覆布《おおい》を垂らしたシンガリイス連隊の行進、女持ちのパラソルをさして舗道に腰かけている街上金貸業者、人力車人《リキシャ・マン》の結髪《シイニョン》、ナウチ族の踊り子の一隊、黄絹のももひきに包まれた彼女
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