》人がここの海岸へ城塁を築きました。それを、あとから和蘭《オランダ》の征服者が改造しました。そしておらんだ人は、いま市場区《ペタア》のあるところを自分たちの住宅街ときめて、市内湖に浮かぶ「奴隷の島」で、土民を飼い慣らしました。が、いぎりす旦那《マスター》が見えるようになってから、治世は一変しました。英吉利旦那は、和蘭の城邑《パアジャア》さんなんかとはすっかり肌あいが違って、ものやさしいことが好きで、不思議にも、奴隷牧畜がきらいでした。で、堡砦《フォート》は土へ還って、そのあとに、停車場と郵便局と病院と大学と教会と、リプトン製茶会社とYMCA会館とが、植物のように生え出しました。市場区《ペタア》はいま、あらゆる東洋的な土器と石器と竹器と、平和と柔順と汗臭《かんしゅう》との楽しい交歓場《よろこびのにわ》でしかありませんし、むかしの「奴隷島」では、馬来《マライ》人の家族とあふがん族の家庭が、椰子《やし》の葉で葺《ふ》いた庇《ひさし》の下で、ぼろぼろのお米を噛《か》みしめて、一晩じゅう発達した性技巧を弄《ろう》して、そのお米の数ほども多い子供を産んで、つまり、一口には、皆がみな、いぎりす旦那《マスター》の御政治をこころの底から讃《ほ》めたたえて、この区域から立ち昇るWARNという感謝の声々が一つ一つ、忠実な銀蠅《ぎんばえ》に化けて、あるものは「奴隷の湖」を越してマカラム街に櫛比《しっぴ》する珈琲《コーヒー》店の食卓へ、またはホテル皇太子《プリンス》の婦人便所へ、他の一派は、丘の樹間に笹絹《レース》のそよぐ総督官舎の窓へと、それぞれに答礼使の意図をもって、ぶうん、ぶうんと飛行して行った。
 そのマカラム街には、赫灼《かくしゃく》たる陽線がこんな情景を点描していた――。
 紺青《こんじょう》に発火している空、太陽に酔った建物と植物、さわるとやけどする鉄の街燈柱、まっ黒に這《は》っているそれらの影、張り出し前門《ファサード》の下を行くアフガン人の色絹行商人、交通巡査の大|日傘《ひがさ》、労役牛の汗、ほこりで白い撒水《さっすい》自動車の鼻、日射病の芝生《しばふ》、帽子のうしろに日|覆布《おおい》を垂らしたシンガリイス連隊の行進、女持ちのパラソルをさして舗道に腰かけている街上金貸業者、人力車人《リキシャ・マン》の結髪《シイニョン》、ナウチ族の踊り子の一隊、黄絹のももひきに包まれた彼女らの脚、二つの鼻孔をつないでいる金属の輪、螺環《コイル》の髪、貝殻《かいがら》の耳飾り、閃光《せんこう》する秋波《ながしめ》、頭上に買い物を載せてくる女たち、英吉利旦那《イギリスマスター》のすばらしい自用車、あんぺらを着た乞食《こじき》ども、外国人に舌を出す土人の子、路傍に円座して芭蕉《ばしょう》の葉に盛ったさいごん[#「さいごん」に傍点]米と乾《ドライ》カレーを手づかみで食べている舗装工夫の一団、胸いっぱいに勲章を飾って首に何匹もの蛇《へび》を巻きつけた蛇使いの男、籠《かご》から蛇を出して瀬戸物らっぱで踊らせる馬来《マライ》人、蛇魅師《スネーク・チャーマー》の一行、手に手に土人|団扇《うちわ》をかざした紐育《ニューヨーク》の見物客、微風にうなずくたびに匂う肉桂《にっけい》園、ゆらゆらと陽炎《かげろう》している聖《セント》ジョセフ大学の尖塔《せんとう》、キャフェ・バンダラウェラの白と青のだんだら日よけ、料理場を通して象眼《ぞうがん》のように見える裏の奴隷湖、これらを奇異に吸収しながら、そのキャフェまえの歩道の一卓で生薑《しょうが》水と蠅《はえ》の卵を流しこんでいる日本人の旅行者夫妻、それから、すこし離れて、横眼で日本人を観察しているヤトラカン・サミ博士と、博士の椅子《いす》。

       4

 とうとう、好奇心の誘惑が、ヤトラカン・サミ博士を負かした。
 この黄色い人種は、いったいどんな口を利くだろう?――こういう興味がさっきから、好学の老博士を、しっかり把握《はあく》していたのだ。博士は、白い旅客に話しかける時のように、こっちからこの日本人に言語を注射して、その反応を見ることによって試験してやろうと決意した。
 日本人は、松葉のように細い、鈍い白眼で、博士と博士の椅子《いす》を凝視していた。それは、何ごとにかけても十分理解力のあることを示している、妙に誇りの高い眼だった。博士はふと[#「ふと」に傍点]、まるで挑戦《チャレンジ》されているような不快さを感じて、急に、その、腰かけている大型椅子の左右の肘掛《アーム》のところで、二本の鉄棒を動かしはじめた。椅子の下で、小さな車が、軋《きし》んで鳴った。ヤトラカン・サミ博士は、歩道の上を、椅子ごとすうっ[#「すうっ」に傍点]と日本人のそばへ流れ寄った。
 ヤトラカン・サミ博士の椅子は、あの、欧州戦争に参加した国々の公
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング