園などで、時おり、足の悪い、あるいは全然脚のない廃兵が、嬉々《きき》として乗りまわしているのを見かけることのある、一種の locomotive chair だった。椅子の脚に、前後左右に回転する小さな車輪がついていて、そして、ちょうどその安楽椅子の両腕の位置に、すこし前寄りに、まるで自動車のブレーキのような棒が二本下から生えている。で、座者は櫓《ろ》を漕《こ》ぐように交互にこの棒を動かして、自在にその椅子車を運転することができるのだった。
 いま、ヤトラカン・サミ博士は、非常な能率さで博士の移動椅子を移動して、日本人たちのテーブルへ滑ってきている。が男の日本人は、旅行ずれのしている不愛想な表情で、博士と博士の椅子をいっしょに無視した。
 そして彼は、ジャマイカの生薑《しょうが》水の上に広げたコロンボ発行の|せいろん独立新聞《ゼ・セイロン・インデペンデント》――一九二九・五・九・木曜日という、その日の日付のある――を、わざとがさがさ[#「がさがさ」に傍点]させて、急いで、活字のあとを追いはじめた。
 これは、脚のわるい印度乞食《インドこじき》だろう。
 だれが、くそ、こんなやつの相手になんかなるもんか――。
 その日本人の動作が、こう大声に表明した。
 しかし、ヤトラカン・サミ博士は、その脚部に、なんらの故障をも持ってはいないのである。博士の歩行椅子《ロコモティブ・チェア》は、いわば博士の印度《インド》的貴族趣味の一つのあらわれにしか、すぎなかった。

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The Ceylon Independent
The Newspaper For The People
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 市当局と世論――昨日の定例市会で市議マラダナ氏の浄水池移転問題に関する質問に対し市長は委員会を代表して、うんぬん。
 チナイヤ河口に死体漂着――二十四、五歳の白人青年。裸体。
 ピストルのあとと打撲傷。
 殺害のうえ停泊中の汽船より投棄か。
 即時バラピテ警察の活動。うんぬん。
 授業時間問題のその後――コロンボ小学児童父兄会が朝の始業時間に関して、市学務課に陳情書を提出したことは本紙の昨夕刊が報道したとおりだが、同会実行委員はこれのみでは手ぬるしとなし、本日市庁に出頭口頭をもって、うんぬん。
 ――こうして新聞を読んでいる、日本人の旅行者の男へ、博学なヤトラカン・サミ博士は、はじめ日本人が梵語《ぼんご》であろうと取ったところの、つまり、それほど自家化している、英吉利旦那《イギリスだんな》のことばを、例のうす眠たい東洋的表現とともに、ふわりと、じつにふわあり[#「ふわあり」に傍点]と投げかけた。
「旦那《マスター》、ちょっと、手相を見さしてやって下さい。やすい。安価《やす》いよ――」
 と。

       5

 ヤトラカン・サミ博士は、ひそかに人間の生き方を天体の運行と結びつけていた。
 こんなぐあいに。
 はるか西の方《かた》バビロンの高山に道路圧固機《ステイム・ロウラー》の余剰蒸気のようなもうもうたる一団の密雲が湧《わ》き起こった。
 それが、白髪白髯《はくはつはくぜん》の博識たちがあっ[#「あっ」に傍点]と驚いているうちに、豪雨と、暴風と、鳥獣の賛美と、人民の意思を具現し、日光をあつめ、植物どもの吐息を吸い、鉱石の扇動に乗じて、いつの間にか、絢爛《けんらん》大規模な架空塔の形をそなえるにいたった。これは、何千年か昔のことでもあり、また、毎日の出来事でもあるのだ。
 が、この雄壮な無限層塔の頂きには、ばびろにあ[#「ばびろにあ」に傍点]と、アッシリアと、埃及《エジプト》と、羅馬《ローマ》と、そうしてドラヴィデア王国の星たちが美々しく称神の舞踊をおどりつづけ、塔の根もとには向日葵《ひまわり》が日輪《にちりん》へ話しかけ、諸国から遊学に来た大学者のむれが天文の書物を背負い、不可思議な観測の器械を提げて、あとから後からと塔の内部の螺旋《らせん》階段を昇って行った。が、それは、要するに、バビロンの架空塔だった。だから、ついに大異変《キャタストロフ》は来た。はるか西境ばびろんの高山に、道路圧固機《ステイム・ロウラー》の余剰蒸気のようなもうもう[#「もうもう」に傍点]たる一団の密雲が横に倒れた。塔の頂上は大地を叩扉《ノック》して、心霊の眠りを覚ました。何千年か昔のことでもあり、また、昨日、いや、毎日の出来事でもある天文と、観測と、碩学《せきがく》大家どもと、彼らの白髪《しらが》と白髯《しらひげ》は、豪雨と、暴風の、鳥獣の苦悶《くもん》と、人民の失望と、日光の動揺と植物の戦慄《せんりつ》と、鉱石の平伏といっしょに、宇宙へ四散した。神通は連山をまたいで慟哭《どうこく》し「黒い魔術」は帰依《きえ》者を抱いて大鹹湖《だいかんこ》へ投身し
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