た。空は一度、すんでのことで地に接吻《せっぷん》しそうに近づき、それから、こんどはいっそう高く遠く、悠々《ゆうゆう》と満ち広がった。そうして、この、物理の懊悩《おうのう》と、天体の憂患と、犬猫《いぬねこ》の狼狽《ろうばい》と、人知の粉砕のすぐあとに来たものは、ふたたび天地の整頓《せいとん》であり、その謳歌《おうか》であり、|ひまわり《サン・フラワー》どもの太陽への合唱隊だった。が、そこに新生した蒼穹《そうきゅう》は、全く旧態をやぶったすがただった。白髪白髯《はくはつはくぜん》の博識たちがあっ[#「あっ」に傍点]とおどろいているうちに、山から山へ、いつの間にか脈々たる黄道《こうどう》の虹《にじ》が横たわっていた。暗黒と光明の前表は、鹹湖《かんこ》にも、多島海にも、路傍の沼にも、それこそ、まるで水草の花のように浮かんで、なよなよ[#「なよなよ」に傍点]と人の採取を待つことになった。これは、つまりは星が映っていたのだ。が、この新発見に狂喜した人々は、はじめて、希望をもって上空を仰いだ。そこには、あの架空塔の倒壊事件以来、羊や山羊《やぎ》や蟹《かに》や獅子《しし》や昆虫《こんちゅう》のたぐいに仮体《かたい》して、山河に飛散していたもろもろの星が、すっかりめいめいの意味をもって、ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]とそれぞれ天空の位置にはめ込まれていた。そしてそこから、さかんに予現の断片を投下しながら、彼らは一つにつながって、太陽と月輪《げつりん》の周囲を乱舞しだした。遊星の軌道《ブデアク》は一定した。星は、かれらが一時逃避した無機物有機物によって、双魚座、宝瓶宮《ほうべいきゅう》、磨羯宮《まげつきゅう》、射手座、天蠍《てんけつ》宮、天秤《てんびん》座、処女座、獅子宮、巨蟹《きょかい》宮、両子宮、金牛宮、白羊座、と、この十二の名で呼ばれることになった。こうして星座ができ上がった。同時に人は、自分の手のひらをも見直した。すると、驚くべきことには、星座はそこにもあった。一つひとつの星の象徴が、皮膚の渦紋《かもん》となって人間の掌《たなごころ》にありあり[#「ありあり」に傍点]と沈黙していたのだ。双魚線、宝瓶紋、磨羯線、射手線、天秤線、獅子紋、白羊線等、すべて上天の親星と相関連して、個人個人に、その運命の方向にあらゆる定業《じょうごう》を、彼の手のひらから黙示しようとひしめき合っていた。恐れおののいた人々は、自分の手のひらの線や紋と、それと糸を引く頭上の星とを、たとえば金牛線と金牛宮、処女紋と処女座といったふうに、対照し、相談し、示教を乞《こ》い、そのうえ、草木の私語《ささやき》に聴覚を凝らし、風雨の言動に心耳《しんじ》をすまし、虫魚の談笑を参考することによって、自己の秘願の当不当、その成否、手段、早道はもとより、一インチさきの闇黒《あんこく》に待っている喜怒哀楽の現象を、すべて容易に予知し、判読し、対策し転換を図ることができると知ったのである。あらびやん占星学《アストロジイ》は、印度《インド》アウルヤ派の正教に進入して、ここに、この手相学《パアミストリイ》を樹立していた。そして、それはいま、タミル族の碩学《せきがく》ヤトラカン・サミ博士に伝わっているのだ。これは、何千年か昔のできごとであると同時に、また、この瞬間の現実事でもあった。ヤトラカン・サミ博士は、おそらくは英吉利旦那《イギリスマスター》の着古しであろうぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]のシャツの裾《すそ》を格子縞《こうしじま》の腰巻《サアロン》の上へ垂らして、あたまを髷《シイニョン》に結い上げて、板きれへ革緒《かわお》をすげた印度《インド》履き物を素足《すあし》で踏んで、例の移動|椅子《いす》に腰かけて、それを小舟のように漕《こ》いで、そうして、胸のところへ、首から、手垢《てあか》で汚れた厚紙《ぼうるがみ》の広告をぶら[#「ぶら」に傍点]下げて、日がな一日、毎日毎日このマカラム街を中心に、このへん一帯の旅客区域の舗道を熱帯性の陽線に調子を合わして、ゆっくりゆっくりと運転し歩いていた。
その広告紙には、博士が、話しかけながら、日本人の旅行者夫妻にも見せたように、こう英吉利旦那《イギリスだんな》の文字がつながっていた。
「倫敦《ロンドン》タイムスとせいろん政府によって証明されたる世界的驚異・印度《インド》アウルヤ派の手相学泰斗・ヤトラカン・サミ博士、過去未来を通じて最高の適中率・しかも見料低廉。とくに博士は、婆羅《はら》・破鬼《シヴァ》に知友多く、彼らの口をとおして旦那《マスター》・奥方《ミセス》の身の上をさぐり出し、書物のように前に繰りひろげてみせることができます。あなたは、ただ黙って、博士の眼の下へあなたの手のひらを突き出せばいいのです・うんぬん」
ヤトラカン・サミ博士は、この、売占
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