乞食《うらないこじき》に紛らわしい風体《いでたち》でもう、何年となく、せいろん島コロンボ市の、ことにマカラム街の珈琲《コーヒー》店キャフェ・バンダラウェラのあたりを、一日いっぱいうろ[#「うろ」に傍点]ついて、街上に、白い旅客たちの旦那《マスター》と奥様《ミセス》たちを奇襲して、その手相を明らかにあらわれていると称して、ひどく猥褻《わいせつ》なことを、たとえばあの、Kama Sutra や Ananga Ranga にでてくるような、閨技《けいぎ》の秘奥《ひおう》や交合の姿態などを細密に説いて、旦那《マスター》がたをよろこばせ、若い夫人たちの顔を赫《あか》くするのを、半公認の稼業《かぎょう》にしているのだった。だから、一般の市民《パアジャア》の眼には、博士は、りっぱな「狂気《きちがい》の老乞食」に相違なかった。が、きちがいでも、乞食でも、これが博士の興味の全部であり、生き甲斐《がい》を感ずるすべてであり、そうして、不本意ながら食物のために必要な零細な印度銀《ルピイ》を得る唯一の道だったので、博士としては、じつに愉快な、満足以上に満足な仕事だったろう。なかでも、白い美婦人の手をとって彼女の性生活を言い当てたり、あたらしい秘密の刺激をあたえたりするときは、老年の博士自身も、どうかすると、その大椅子の上で、ふと[#「ふと」に傍点]異常な興奮を感ずるようなことがないでもなかった。この、ヤトラカン・サミ博士の椅子車というのは、腰かけるところも、両脚も、うしろの寄りかかりも、すばらしく大々《だいだい》とした珍しいもので、ちょうど女がひとり、股《また》を広げてしゃがんで、上半身をまっすぐに、両手を前へ伸ばして、まるで、ヤトラカン・サミ博士を背後から抱擁しているように見える、特別のこしらえだった。どこからどこまで、幅の広い、分の厚い、頑丈《がんじょう》な、馬来《マライ》半島渡来の竹籐《ラタン》で籠編《かごあ》みにできていて、内部は、箱のようになっているらしかったが、表面は、全体を雲斎織《ドリルス》で巻き締めてあって、上から、一めんに何か防水剤のような黒い塗料がきせてあった。そして、それに、小さな車輪と、運転用の鉄の棒とが付いていた。博士は、まるで躄《いざり》のようにこの椅子車に乗ったまま、自分で動かして、外国人のいそうなところは、ピイ・ノオ汽船会社の前でも、デヒワラ博物館の近くへでも、どこへでも出かけて行った。椅子の背中には、鍋《なべ》、マッチ、米の袋、罐入《かんい》りのカレー粉などが、神式の供え物かなんぞのように、いつも大げさに揺れていた。これらが、そして、これらだけが、博士の生活必需品の全部だった。煙草《たばこ》は、いぎりす旦那の吸いがらを路上で拾ってのんだし、夜は、肉桂園《シナモン・ガーデン》へ移動椅子を乗り入れて、椅子の上に円く膝《ひざ》を抱いて、星と会話し、草や風と快談して毎朝を迎えた。ヤトラカン・サミ博士は、屋根のある一定の住まいを拒絶していたのだ。そこで、太陽といっしょに椅子のうえで眼をさますと、博士はまず、アヌラダプラの月明石階段の破片である、その一個の月明石《ムーン・ストン》の首掛けへ一日の祈念を凝らし、それから、長い時間を費やして、丹念《たんねん》に鼻眼鏡をみがく。言い忘れていたが、博士は、これも、ひとりの英吉利《イギリス》旦那からの拝領物であるところの、硝子《たま》の欠けた鼻眼鏡をかけているのである。それが、博士の性格的な風貌《ふうぼう》と相まって、博士の達識ぶりを、いちだんと引き立たせて見せていた。
言うまでもなく、ヤトラカン・サミ博士は、あうるや学派に属し、印度《インド》正教を信奉する多美児《タミル》族、エルカラ閥の誠忠な一人だった。で、博士は、ズボンと上衣に分離している英吉利《イギリス》旦那の服装を、あくまでも否定していた。これは、博士ばかりではない。このとき、本土のカルカッタでは、盟友マハトマ・ガンジ君が洋服排斥の示威運動を指揮し、手に入る限りの洋服を集めて街上に山を築き、それを焚火《たきび》して大喚声をあげたために、金六|片《ペンス》の科料に処せられているではないか。それなのに、ヤトラカン・サミ博士が、この服装《なり》でマカラム街の珈琲《コーヒー》店キャフェ・バンダラウェラの前などへ椅子を進めると、同じタミル族のくせにすっかり英吉利《イギリス》旦那に荒らされ切っている女給どもが、奴隷湖の見える暗い土間の奥から走り出てきて、まるで犬を追うように大声するのである。
「また来た」
「どこに」
「あすこ」
「あら! ほんと」
ヤトラカン・サミ博士は、これを悲しいと思った。
博士が、いぎりす奥様《ミセス》をはじめ白い女客に、手相にまぎれて猛悪な性談をささやくことが|大好き《ハピイ》なのは、ことによると、この同胞の女
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