たちへの復讐《ふくしゅう》のための、博士らしい考案だったかも知れない。もっともタミル族の女給どもは、老博士を、というよりも、いつも博士の椅子を嘲笑《ちょうしょう》したのだが、しかし、この椅子の存在なくしては、博士自身の存在もあり得ないのである。

       6

 ヤトラカン・サミ博士は、自分の手相術を疑似科学の歴史できれいに裏打ちしていた。
 こんなぐあいに。
 Palmistry, Chiromancy, または Coirognomy ――すべて手相学である。
 この手相学は、手のひらの線と、その手の持つ顔や感情を研究することによって、手の所有者の性格と運命を知り出すという神秘学の一つで、もとカバラ猶太《ユダヤ》接神学者の一派と、印度《インド》の婆羅門《ばらもん》宗に起こったものだ。カバラ学者すなわちカバリストの接神論《セオソフィ》は、えすらあるの苗《びょう》である、ヤコブ家長の十二人の子から流れ出ている創世説《コスモゴニイ》に、その根拠をおく。つまり手相学は、占星学に負うところ多いのである。が、中世にいたって、いっそうこの手相学を体系化したのが、一五〇四年に、みずから手相を判読して自分の暗殺を予言したコクルスだった。こうして、十九世紀末から現代にかけて、ことに婆羅門《ばらもん》アウルヤ派の手相学は、多くの信仰者を作って、昔の盛時にかえった観がある。しかし、いぎりす旦那の故国では、ヤトラカン・サミ博士のように手相見をもって職業とすることは、おもにあのジプシーを考慮に入れた浮浪人法によって、禁止されているのだ。
 ヤトラカン・サミ博士は、すでにこういう華々しい手相学を、もう一つ、アウルヤ派の宗教原理でいっそう深遠なものに装丁することにも、みごとに成功していた。
 こんなぐあいに。
 婆羅門《ばらもん》主義は、唯一無二の婆羅を信心し、吠陀《ヴェダ》を奉って進展してきた宗教である。したがって、ほんとの婆羅教は単神論《モノセイズム》なのだが、これが、その分派であるところの印度《インド》教になると、いつの間にかにぎやかな多神論《ポリセイズム》に変化している。この印度教の教義は、一種の三位一体論である。ヤトラカン・サミ博士らのいわゆる Trimurti だ。言いかえれば、婆羅門宗においてはたった一つだった本尊が、つまり、その中心思想がヤトラカン・サミ博士の印度教では、三つの形にわかれて顕現している。婆羅と、美須奴《ヴィシヌ》と、邪魔《シヴァ》と。
 婆羅は、創生を役目とする。
 美須奴は、保存をつかさどる。
 邪魔は、破壊を仕事にする。
 と、いったように、理屈で、こうはっきり三座に区別されているくらいだから、じっさい信仰する場合には、めいめいが、このなかのどれか一つを選びとって、それを自分の吠陀《ヴェダ》としているにすぎない。で、事実は、やはり一神教なのである。要するに、印度四階級中最高の地位を占める僧侶階級《ブラマン》のうちである学者は生産の婆羅を採り、他の人々は温容の美須奴に走り、また別派は、破壊の大王《マハ・デヴァ》である邪魔に就いて言いようのない苛行《かぎょう》をくぐりながら、ひたすら転身をこいねがう。そして、これら三つの神性《デイテ》が、それぞれの婆羅門にとって Veda であるところに、全印度教を通じての確実な単一教会《ユニテイリアン》ができあがっているのだ。ヤトラカン・サミ博士が、その一つの邪魔派を標榜《ひょうぼう》する練達の道士であることは、いうまでもないのである。
 こうして、Siva は破壊の吠陀《ヴェダ》である。破壊は、いま実在するものをいったん無に帰して、そのかわり、そこに全く新しい実在を築こうとする第一の着手だ。だから、ヤトラカン・サミ博士は、こころからふるえおののき、剃刀《かみそり》を遠ざけ、月光石《ムーン・ストン》を崇《あが》め、板っぺらの沓《くつ》をはき、白髪の髷《まげ》を水で湿し、手相見の紙着板を首にぶら下げ、大型移動椅子を万年住宅としてつつしんで、これに近づかなければならない。――
 ヤトラカン・サミ博士の耳へは、草木と、風雨と、鳥獣と、虫魚と、山河とが、四六時ちゅう邪魔神の秘密通信を自然の呼吸として吹き込んでいる。
 こんなぐあいに。
 印度の大地も、婆羅門の社祠《しゃし》も、学者たちの墓跡も、タミル族の民族精神も、女給に出ているその娘どもも、彼女らの美しい yoni も、いまはすっかり、じつにすっかり英吉利旦那《イギリスマスター》の「文明履物《かわぐつ》」によって、見るも無残に踏みにじられていることは、何とあっても吠陀《ヴェダ》のよろこびたまわぬところだ。ことに、豪快倨傲《ごうかいきょごう》の破壊神|邪魔《シヴァ》にとっては、一日も耐えられない汚辱に相違ない――が、この旦那《マスター》方は
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