銀《ルピ》を持っている。連隊を教練している。そして、十字架と病院と学校事業と社会施設とで、交換に、同胞から労力と資源と、それから Thank you を奪《と》り上げているのだ。もっとも、いつまでもこうではあるまい。しかし、いまはまだ、すこし早いのだ。カルカッタの若者マハトマ・ガンジも同じ意見である。まだ早い。まだ、すこうし早い。だから、それまでは静かに、しずかに動き回って、手相術《パアミストリイ》と、白人の女への猥言《わいげん》と、この椅子車と――それはいいが、ヤトラカン・サミ博士の一生のうちに、博士が、「ついにその椅子を蹴《け》って踊り出る日」が、いったい来るだろうか。
 せいろん政庁のいぎりす旦那たちは、とうの昔から、博士の名を赤いんく[#「いんく」に傍点]で台張《ブック・アプ》してある。そして、「きちがいの老乞食」と言い触らして、例の便利な浮浪人取締法を借りて、絶えず合法に看視しているのだ。
 だが、ヤトラカン・サミ博士は、乞食でいっこうさしつかえなかった。事実、婆羅門僧の修行には四つの階梯《かいてい》がある。道者たらんとするものは、まず学生を振り出しに、つぎに家庭人として生活し、それから隠士《レクルウス》に転化し、第四に、そして最後に、森へ入って、茎類《ハアブ》を食し、百姓どもの慈善を受けて乞食にならなければならない。このうらやむべき境涯《きょうがい》にいたって、はじめて婆羅門アウルヤ学派の知識と名乗り、次ぎの世に生まれ変わりたいと思うものをも、自由自在に望むことが許されるのである。ヤトラカン・サミ博士は、ただ、森林の乞食の代わりに、市街の乞食をえらんだだけだ。森には、白い美女がいない。しきりに彼女らの恥ずかしがる言葉をささやいて、ひそかに復讐《ふくしゅう》の一種を遂げることが、森林ではできない。そういう快《かい》を行《や》る機会がないのだ。が、コロンボ市の旅行者区域マカラム街あたりをこの椅子《いす》で「流し」ているかぎり――ヤトラカン・サミ博士は、こんど生まれ変わる時は、どうかして、その、奥様《ミセス》たちのブルマスに化身《けしん》したいものだと、いつも、こんなに突き詰めて考えているくらいだった。
 そして、あの、うまく乞食の域にまで到達したときに、森へ行かずに、コロンボ市中に踏みとどまっていたからこそ、ヤトラカン・サミ博士は、これは、もう十何年も前のこ
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