チャアリイは何処にいる
牧逸馬

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)喘《あえ》いでいた。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)非常|通牒《つうちょう》を発して

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「斎」の「小」に代えて「貝」、52−7]《もたら》した
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 七月一日だった。
 夏の早いアメリカの東部である。四日の独立祭を目のまえに控えて、フィラデルフィアの町は、もう襲いかけた炎熱の下に喘《あえ》いでいた。
 人事的には、この独立祭からアメリカじゅう一せいに夏になるのだ。男は、言いあわしたように麦藁《むぎわら》帽をかぶりだし、女は、一夜のうちに白い軽装に変わる。アメリカの生活で楽しい年中行事の一つであるいわば衣更《ころもが》えの季節だった。
 このフィラデルフィアの第一流の住宅区域に、ロス氏という有力な実業家が、宮殿のように堂々たる大邸宅を構えて住んでいる。ちょうどこの時、ロス夫人は、来《きた》らんとする夏を逃げて、早くも田舎の別荘へ避暑に行っていたが、この問題の一日《ついたち》の夕方、ロス氏が、市の中心にある自分の会社から帰って来ると、二人の愛息に付けてある若い保母が、玄関に立って、主人の帰宅を待ちながら泣いていた。
 ひどくとり乱している。訊《き》いてみると、その二人の息子が、午後から姿を消して、邸の内外どこを捜してもいないというのである。ふたりの男の子は、上をウォルタアといって七歳、弟のチャアリイは三つで、どちらもロス夫妻が眼に入れても痛くない、愛くるしい子供たちだった。兄弟仲もよく、いつも一緒に跳《は》ねまわって遊んでいた。
 はじめロス氏は、保母が責任を感じて狼狽《ろうばい》しているわりに、この報《しら》せを軽く受け取って、暢気《のんき》に聞き流した。
「なあに、子供のことだから、遊びにほおけて遠っ走りをしたのだろう。迷児《まいご》になっているのかもしれないが、たいしたことはないさ。もうすこし待ってみて帰って来なければ、警察に頼んで捜《さが》してもらおう。そうすれば、すぐ見つかるにきまってる。」
 こうかえってロス氏が保母を慰めるような口調だった。
 が、この清々《すがすが》しい初夏の夕ぐれこそは、じつに古今の犯罪史に比類を見ない、一つの小説的悲劇が、これから高速度に進展しようとする、そのほん[#「ほん」に傍点]の緒《いとぐち》にすぎなかったとは、当のロス氏をはじめだれも気がつかなかったのだ。しかし、こうして突然フィラデルフィアの富豪ロス氏の家からいなくなった、三つになるこの愛息 Charlie Ross ほど、そしてそれを序曲として開幕されたあの劇的場面の連続ほど、奇怪な特異性に富む事実物語はまたとないであろう。
 僕はいま、すべての作家的手法を排除して、その一伍一什《いちぶしじゅう》をここに詳述してみたいと思う。

 暗くなっても帰らないから、ロス氏もすこしあわてだした。ともかく、所轄《しょかつ》署へ電話をかけて二児の捜索を依頼すると同時に、心あたりの知人の許《もと》や、近所の家へも人を遣《や》って聞きあわしてみた。もとより七つに三つの子供である。人を訪問するわけもないし、よしかりに遊びに来たとしても、日が暮れるまでロス氏のほうへ知らせずに引き止めておく家もあるまい。いわゆる御飯時だというので、召使でも付けて返してよこすはずだ。したがって、このロス氏の個人的捜査は、はじめからあまり期待もかけなかったとおりに、全然無効に終った。二人はどこの家へも行っていないのである。が、いよいよそうとわかると、ロス氏は初めて真剣に騒ぎ出していた。
 いっぽうロス氏の電話を受け取った所轄《しょかつ》署はさっそく管内に散らばる警官に非常|通牒《つうちょう》を発してロス兄弟の影を見張らせたが、虫の知らせとでもいおうか、署長はこれだけではなんとなく不安を感じて、すぐさま中央署へ通知して助力と指揮を仰《あお》いだ。これはたんに、依頼人がロス氏というビジネス界と市政の大立物《おおだてもの》なので、とくに大事をとったにすぎなかったのかもしれないが、この署長の措置《そち》は、おおいに機宜《きぎ》を得たものとして、のちのちまで長く一般の好評を博したのだった。中央署も、相手がロス氏とあってただちに活動を開始した。映画で見るように、詰襟《つめえり》の制服に胸へ洋銀《ニッケル》の証章《バッジ》を付けた丸腰の警官隊が、棍棒を振りまわし、チュウイング・ガムを噛みながら八方へ飛んだ。私服も参加した。一瞬のうちに電話のベルが全市の分署へ鳴り響いて、宵の口のフィラデルフィアにたちまち物々しい捜査網が繰り拡げられた。いったいアメリカの巡査というと、いつもチャアリイ・チャップリンにお尻を蹴られたり、怒って追っ駈けようとする拍子《ひょうし》にバナナの皮を踏んで引っくり返ったりなんか、つまり、あんまりぱっ[#「ぱっ」に傍点]としない役目の喜劇的存在とばかり、どういうものか概念されている傾向があるが、ああ見えても、生まれつき神経の太いアイルランド人が多いせいか、いざとなるとなかなか眼覚《めざま》しい活躍をやるのである。ことにこういう連絡訓練《チイム・ワアク》を要する偶発事件になると、瞬間の告知で整然たる行動を取り得る制度が完備しているのだ。それに、普段から市民に親しまれているから、なにか事があると、だれもかれも有要な情報と援助を与えることを惜しまない。ここらが日本あたりとはだいぶ違う。それからもう一つ、これはち[#「ち」に傍点]と大きな声では言えないが、このロス兄弟事件の時なども、ロス氏が聞えた富豪であり、おまけにけっしてけちん坊[#「けちん坊」に傍点]でないというので、子供を発見した警官には、ロス氏のポケットから多大の恩賞が出るにきまっている。そこで、われこそは幸運に与《あず》からんものと、正直なもので、数百の警官がまるで宝探しでもするように、この、金儲けになる福の神みたいな子供の行方《ゆくえ》を眼の色を変えてさがしまわった。変な話だが、この種の金銭の授受は、アメリカでは当然の謝礼と目《もく》されていて、だすほうも貰う方も格別やましくない。こんなわけで公務に個人的利益の熱意が加わって、そのため意外に能率があがるのかもしれないが、ここらは、日本とはおおいに違う。日本では、大金を出して勲章を買ったり、売って儲けたりする代議士や大官はあっても、個人の謝志を些少《さしょう》なりとも黄白《こうはく》の形でポケットする警官はあるまい。また、あっては大変だ。が、これは余談。
 そのうちに時間がたって、九時、十時、十一時――しかし、それでもまだ、警官はじめロス氏自身も、心配は心配として、この事件をそれほど運命的に重大な性質のものとは夢にも考えていなかった。ウォルタアとチャアリイは帰路を失って迷児《まいご》になったもの、早晩どこかの横町《よこちょう》ででも発見されて、安全に伴《つ》れ戻されることだろう。ロス氏はこう簡単に解釈して、不安のなかにも、心の底では絶えず楽観しきっていた。人間はなにによらずすべての物ごとを、最後の最後まで、漠然ながら自分にとって有利にのみ信じていたい生物である。この物語は、その間のこころもちをよく現わしている。
 やがて、十二時。いよいよ上を下への騒動になっていたロス氏邸で、このときけたたましく電話のベルが鳴った。

 警察からである。
「ウォルタアだけは見つかりました。八マイル市外の田舎《いなか》道で泣いていました。奇怪な話を持っています。すぐにお宅へ送りとどけますが、チャアリイのほうは、いまのところまだ不明です。」
 ウォルタアというのは、七つになる上の児で、弟のチャアリイは三歳。三つといっても西洋の三つだから、日本の数え年にすると四歳ないし五歳にあたる。ウォルタアも八つか九つのわけだが、とにかく、一緒に出た兄弟のうちウォルタアだけ発見されて、チャアリイは? No trace of Charlie, so far! 昂奮した声がこう叫ぶようにいって、警察からの電話は切れた。
 八マイル市外の田舎道、奇怪な話――ロス氏は、ここに初めて、事件を全然別な色彩で見た。そしてその容易ならぬ予感にはっきり[#「はっきり」に傍点]と胸を衝《つ》かれた。
 ウォルタアが帰って来た。が、彼の話は簡単だった。午後三時ごろ、チャアリイと二人で家の前に遊んでいると、小さな荷馬車で通りかかった二人の男が、この馬車で面白いところへ伴《つ》れて行ってやるから乗らないかと誘ったのだという。この年ごろの男の子は、乗物というと夢中なものだ。自家には立派な自動車があるけれど、自動車には飽きている。かえってその汚い荷馬車に、拒《こば》みきれない子供らしい誘惑を感じたのだろう。幼い兄弟は無邪気に笑いさざめて、さきを争って馬車へ這《は》いあがった。馬車は走り出す。逃げるように速力を増す。巷《ちまた》の景色は、おんば日傘で育ってきた子供たちに、このうえなく珍らしかったに相違ない。はじめのうち、二人は手を拍《う》って喜んでいたが、やがて市街を出外れて淋《さび》しい田舎道にかかると、子供ごころに急に不安を感じたものか、ウォルタアが大声に泣き叫び出した。すると、人の注意を惹《ひ》くことを恐れたとみえて、二人の男はすばやく相談ののち馬車を停《と》めて、そこの路傍《ろぼう》の草の上へウォルタアだけをおろしたのである。そして、恐怖も不安もなく、にこにこ笑っているチャアリイを乗せたまま、遠い一本道を鞭《むち》音高く馬車は消えてしまった。兄弟はこうして別れたのだ。
 事件の性質は一変した。もう、富豪の迷児《まいご》を見つけてお礼にありつこうなんかという暢気《のんき》なものではない。新しい命令が全市へ飛んで、警官はいっせいに緊張した。あわただしい電話と電報が深夜の空気をゆるがせて、即刻フィラデルフィアの外輪六十マイルにわたって警戒網が敷かれた。誘拐《ゆうかい》の前科者へはすべて動静を窺《うかが》うべく刑事が付けられた。普段から白眼《にら》んでいる市内外の|悪の巣窟《ロウクス・ネスト》へは猶予《ゆうよ》なく警官隊が踏み込んだ。が、この、七月一日の夜中から翌二日、三日とかけて総動員で活躍したその筋の努力は、なんら報《むく》いられなかった。問題の馬車に乗っていた二人の男も、チャアリイも、まるで大地にでも呑《の》まれたように、その片影すら見せないのである。
 こうなると、ロス氏としては、警察と神様を頼って祈るよりほか仕方がない。そのあいだのロス氏の気持は、じつに、自分の心臓を生きたまま食べるという形容のとおりだった。ゴルフで鍛えたロス氏が、一睡もしないために眼は凹《くぼ》み頬はこけて、まるで別人のようになった。彼は、一日《ついたち》の朝オフィスへ着て出た服のまま、昼夜ネクタイも取らずに吉報《きっぽう》を待って電話の傍《かたわ》らに立ちつくした。しかしそれでもロス氏の頭の隅には、まだまだ一|縷《る》の望みが宿っていた。というより、チャアリイの無事と早晩の帰宅を無条件に信じて、彼は疑わなかったのだ。こうはっきり[#「はっきり」に傍点]と、これが誘拐《ゆうかい》者の仕業《しわざ》とわかってみれば、相手の真の目的が金銭にあることはいうまでもない。そんなら、その金さえ出し惜しまない以上、なにも騒ぐことはない、動ずる必要はないわけである。金で話のつくことならおおいに御《ぎょ》しやすい。ロス氏はこう考えた。そしてそれまでは、大事な玉《スタフ》だから、先方もチャアリイに害を加えるようなことはあるまい。せっかくの子供《たま》を殺してしまったりしては、もとも子もないからである。で、いまさしあたって愛児の身に危険が迫っていようとは想像されないと自分に言い聞かせて、ロス氏は、この、安心できない安心に、無理にも縋《すが》らなければならなかった。
 いずれそのうちに誘
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