拐《ゆうかい》者のほうから、なんらかの方法でなんとか言ってくるだろう。そうしたら、あと身代金《みのしろきん》の額の問題と、交換の場所方法などに関する交渉だけだ。いわば、事は取引になる。急報によって避暑先から帰って来ていた夫人にも、ロス氏はこう慰めるように言って、誘拐者の第一通信をじっ[#「じっ」に傍点]と待っていた。

        2

 が、いつまで待っていても仕方がない。で、ロス氏の方から、新聞広告を仲介に、進んで誘拐《ゆうかい》者へ話しかけた。七月三日付けのフィラデルフィア発行の諸新聞は、すべてこのロス氏の探人広告を大きく掲げている。いうまでもなく広告の形式はあくまでも一般公衆に宛《あ》てたもので、「チャアリイの発見、もしくはその所在を知るに役立つ報道を※[#「斎」の「小」に代えて「貝」、52−7]《もたら》した人へはそうとう以上の金員《きんいん》を呈する」むねをわざと簡単に記すにとどまり、犯人に警戒させないために深甚《しんじん》の注意を払ってあった。
 すると、ここに一つ、困った問題がおきた。というのは、どうせこの広告を見て、チャアリイは私の家にいますとか、これこれのところに、匿《かくま》われているのを知っているとか言って出てくる者があれば、それは犯人か犯人のまわし者にきまっている。しかしこれではまるで私が誘拐《ゆうかい》しましたと自首して出るようなもので、そんな馬鹿なことをするやつはあるまい。そうすると、隠れている誘拐《ゆうかい》犯人になにか音《ね》を出させるためには、ロス氏としては、まずなによりも、犯人にむかって絶対に逮捕の危険のないことを確保しなければならないのだが、警察は、その保証を与えることを拒絶した。
 警察の言い分ももっともである。
「なるほど、ロス氏は子供さえ取り返せばいいのだろう。そのためには、大金を出すことも辞しまい。ロス氏は金がある。事実、全財産を投げ出してもいいとまで言っているが、そんなことをされては、まるで誘拐《ゆうかい》者に賞金を与えるようなもの、この種の犯罪を奨励《しょうれい》するのも同じで、われわれの眼の下で、こういう取引が行なわれるのを、法として許すわけにはゆかない。金と交換に子供さえ返して寄こせば、警察は指一本触れないなどというのはもってのほかだ。そんなことがあっては無警察状態である。われわれの存在を無視し愚弄《ぐろう》する、これよりはなはだしきものはない。われわれの眼の碧《あお》いうちは断じて――。」
 西洋人だから眼の黒いうちと言うところを碧いうちとやった。とにかく敦圉《いきま》いた。
 実際そのとおりである。
 ロス氏は、チャアリイの身柄に傷をつけずに受取りさえすればそれでよい。そのためには金なんかいくらでもだすつもりである。が、警察としては、もちろん子供も子供だが、こうなるとなによりも犯人を捕まえたい。ここに、ロス氏側と警察と二者の目的の間に、避けられない開きが生じた。そして、いわばこの事件の性質上、当然の|開き《ギャップ》こそは、じつにこの事件を取り返しのつかないことに導いてしまった真の原因である。とこういうと、ある人は嗤《わら》うだろう。けっして捕《つか》まえないという警察の保証をつけて犯人を誘《おび》き出し、その、のこのこ現われたところを子供と一緒に押えちまえばいいじゃないか、と。これはだれしも第一に考えるところで、そううまくゆけば簡単な解決である。まことに世話がない。ロス氏も警察も、この囮《おとり》手段には先刻気がついているんだが、そんな尋常《じんじょう》な手段に乗る相手ではないのだ。ことに先方が職業的に誘拐《ゆうかい》者であってみれば、そんな作戦は百も承知していて、いかに巧妙に網を伏せたところで、間違ってもそいつに引っかかるようなだらし[#「だらし」に傍点]のないことはしない。彼らはじつに、山一つむこうの水を嗅《か》ぐ鹿のように、その筋の動きと自分の危険にたいしては、つねに異常に敏感にこれを察知し、それによって抜け目なく行動するのだから。
 ところが、たいした期待もおかず出した新聞広告にあんがいさっそく反響があった。三日に掲載されて、四日のことである。誘拐《ゆうかい》者から最初の手紙がロス邸へ郵便で配達された。なかなか面白いからまず原文を掲げる。
[#ここから2字下げ]
Mr.Ross ―― Be not uneasy. Your son Charlie will be all write. We as got him, and no power on earth can deliver him out of our hands. You will have to pay us before you git him from us, and pay a big sum, too. If any approach is maid to his hidin plaice that is the signal for his anihilation.
[#ここで字下げ終わり]
 大変な名文である。訳す必要もあるまいが、概略記すと、「御子息チャアリイはおれたちといっしょにいるから安心するがいい。が、地上のどんな力もこの児を俺たちの手から取り上げることはできない。子供が欲しければ、その前に金を払うべし。それも大金である。もしなんとかして子供の隠れ場所へ近づこうとすれば、ただちにそれはチャアリイの死滅への合図となる。」
 砂糖の包み紙の裏へ走り書きをしてある。発信人の住所はもちろん、署名もない。が、ロス氏は、これでもうチャアリイが帰ってきたように喜んで、すぐさま、金を支払うことを承諾するからいっそう進んだ交渉に移りたい趣《おもむき》を、それとなく新聞広告にして出そうとした。相手の居所《いどころ》がわからないから、ロス氏は新聞広告を媒介《ばいかい》に意思を伝えるより方法がなかったのである。するとここへ、警察が割り込んできて、その手紙の返事を新聞広告に出すことを厳禁してしまった。
 ここらがはなはだデリケートな問題の生ずるところである。犯人は一日も早く子供を金に換えようと焦《あせ》っている。つまり多額なる値段でチャアリイをロス氏へ売り返そうとしている。ロス氏は、いかなる高値も辞せずにそれを買い戻そうとしている。いわば、ロス氏と誘拐《ゆうかい》者は、その利害において一致しているわけで、ロス氏さえ物質上の損をすれば、チャアリイは完全にロス氏の手へ返るはずだったが、警察は警察で、威信《いしん》ということもあれば、また別の観方《みかた》もある。そんなことをされては降参《こうさん》も同然で、まるで犯罪を助長するようなものだ。こういって極力ロス氏の腰弱の態度を排撃したから、この警察の干渉が邪魔《じゃま》をして、子供を提《さ》げてロス氏へ接近しようとする犯人に近づくことができず、警察を出し抜いてなんとかして直接犯人と交渉を進めたいと考えだしたロス氏には、ついに四六時中それとなく密偵の監視の眼が光るにいたった。警察としてはたしかにやむを得ない遣《や》り方であったろう。しかし、ロス氏の身になってみれば、まずなによりもチャアリイをこっちのものにすることが第一である。この必要におうじて、なぜ警察ははじめ見て見ぬふりをし、眼をつぶって犯人とロス氏の間に子供の身柄と金銭の授受を完了させ、しかるのちに、あらためて犯人の捕縛《ほばく》にむかって探査の歩を進めなかったか。このほうがかえって新しく犯人の足跡を辿《たど》る意味でも好|都合《つごう》ではなかったか。が、ちょっと考えただけでも、その金の目じるし、用途など有力な手がかりが新たに得られるはずではないか。なんといってもむこうが子供を押えているあいだ、強みはむこうにある。言いなり次第になってまずその手から子供を引き放し、それから警察として独自の活躍に移るというのが、この際最上の分別《ふんべつ》ではなかったか。とにかくこの事件は、ちょうど狂暴な野犬がなにか毀《こわ》れやすい貴重品をくわえて庭へ逃げてしまった。それを、なんとかしてうまくだまし[#「だまし」に傍点]て取り返そうとしているのと同じで、貴重品の所有主《もちぬし》にとっては、犬なんか捕まろうと逃げようとたいした関心ではない。それよりも、犬が毀さないうちに品物を取りあげてしまわなければならないから、自然「よしよし」なんかとお世辞を使って、交換に肉片《にくきれ》でも見せながら、そっ[#「そっ」に傍点]と近寄ろうとする。この場合、第一の禁物は犬を怒らせたり驚かしたりすることだ。こっちには貴重品だが、犬にとってはなんでもない。すでに荷厄介《にやっかい》になっていて、いつ気が変わって噛《か》み破るかもしれないのだ。はらはら[#「はらはら」に傍点]しているところへ、その貴重品には比較的関係の薄い第三者が現われて、いきなり、犬を追いまわしたとしたらどうだ? この第三者は、犬と品物とを、一しょに押えようとしたまでで、けっして品物の安否《あんぴ》を無視したわけではないが、結果から見て、その行為は品物の安否を無視したことになり、所有者の恨《うら》みを買いこそすれ、感謝されはしないであろう。犬は、驚いた拍子《ひょうし》に、あるいは、怒りに任せて、きっとその貴重品を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にして、おまけに逃げてしまうに相違ないからである。このロス事件の場合がちょうどそれだ。まず肉でもなんでもやって品物を放させたのち、犬を捕まえにかかればよかったのだ。警察は法規と威信《いしん》にかまけて思慮がたらなかったといわれてもぐう[#「ぐう」に傍点]の音《ね》も出まい。

 しかし、警察には確たる逮捕の見込みがついているのだ。だから、任せておいてみるがいいとばかりに、おおいに腰が強かった。こうして、いよいよロス氏と警察の間に意見が背馳《はいち》してくると、警察は急に積極的に出た。
 とつじょ、警察の名で新聞広告を出して、チャアリイ・ロスの発見、ならびに誘拐《ゆうかい》者の捕縛《ほばく》に資する重要材料の提出者には、告知と同時に二万五千ドルを与えるというので、これはじつに、真正面から誘拐者を相手どった、思いきった挑戦だった。
 これがいけなかった。この一片の新聞広告である。フィラデルフィアの警察がいまだに責められているのは。そして、いくら責められても仕方がないのは。
 素人《しろうと》が考えてもわかる。これではまるで犯人を愕《おどろ》かして警戒させ、狂暴なやつをいっそう狂暴にし、子供なんかどうでもいいから逃げるならいまのうちに逃げろというのと同じである。が、警察としてはこの態度が正しかったのだろう。立場からいって、ロス氏のように初めから折れて出ることはできない。子供を返してくれ。金はいうだけやる。しかも警察はけっして干渉しない。いわゆる no question asked では、法律が許さない。これは法学者の謂《い》う compounding a felony ――盗品の買いあげもしくは返還賠償《へんかんばいしょう》の条件付きで犯人を赦免《しゃめん》すること――に該当し、近代文明国の刑法原理に悖《もと》る立派な不法行為だからだ。それはそうかもしれない。が、ようするに、理窟《りくつ》は理窟だ。実際には、この警察の広告のために、とうとうあの思いがけない結果となってしまったではないか。のみならず今日にいたるまで、この事件に関するかぎり、そして地球の存続するあいだ、フィラデルフィアの警察当局は頭が上らないでいる。
 そんならば、いかにこの広告が事件の方向を運命的に転換するに役立ったか?――こうだ。
 はたして、これでびっくりした犯人はいっそう深く潜《もぐ》ったものとみえ、とうぶんロス氏のもとへも警察へも、なんらの音信がなかった。と、七月二十四日、犯人から第二の手紙がロス氏へ届いた。前便と同じ手蹟《しゅせき》で、
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「チャアリイが俺たちの手にあるあいだ、おれたちは、アメリカじゅうの探偵が大騒ぎをしたってすこしも
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