驚きはしない。警察は、チャアリイの発見とわれわれの首へ大枚の賞金を懸けている。しかし、これは、チャアリイの身にとってじつに危険なことと思わないか。もし警察が、チャアリイにたいして、父親である貴下と同じ心臓をもっていたら、おそらくかかる愚《ぐ》はあえてしなかったであろう。二万五千ドルの懸賞はとりもなおさず御子息チャアリイの首にかけたもの、それは、明らかにチャアリイの犠牲を前提としていることを御|賢察《けんさつ》ありたい。」
[#ここで字下げ終わり]
 大体こんな文面だった。そして、それきりぱったり[#「ぱったり」に傍点]通信は絶えた。

 ロス夫妻の心痛がどんなに大きかったか、それはいうまでもなかろう。センセイショナルな事件ならなんでも好きなアメリカのことである。このときはすでに全国煮えくる返るような騒ぎで、同情は雨のように夫妻の上に集まっていた。溺《おぼ》れる者と同じ心持ちから、夫妻は藁《わら》をも掴《つか》みたかったに相違ない。水兵服を着て頭を分けた、可愛いチャアリイの写真が、発見のよすが[#「よすが」に傍点]にもと、毎日アメリカの新聞に掲載されて、人の親の泪《なみだ》をそそった。写真は、海を渡って、英国はじめ大陸の新聞にも「探ね人」の註とともに載《の》った。一説に、誘拐《ゆうかい》者はチャアリイをヨーロッパへ伴《つ》れ渡ったらしいという噂があったからだ。同じ年ごろの子を持つ人々は、だれも他人事とは思わなかった。いままであんまり構《かま》いつけなかった子供を急に大事にしはじめるやら、ちょっと姿が見えないといっては大騒ぎするやら、それを裏庭で「発見」した母親が頬擦《ほおず》りして泣くやら、父親は、思い出したように子供を坐らせておいて、街上の見知らぬ人を用心しなければならない必要を汗を掻《か》いて説明するやら、全米国で、三、四歳の小児が一躍《いちやく》家庭の花形におさまり、すっかり豪《えら》くなってしまった。とにかく、いたるところで悲喜劇が醸《かも》された。
 この騒動の最中、万事実際的なアメリカに、はなはだアメリカらしくない、一つの神秘的な挿話が持ちあがった。ある晩、ロス夫人が夢を見たのだ。
 その翌日、ロス氏邸から電話によって、ニューヨーク警視庁――事件の捜査本部はこの時ニューヨーク警視庁に移されていた――から、ただちに係りの探偵長ウォウリング警部が出張して来た。
 客間に対座するとすぐ、ロス夫人が言った。
「きっとお笑いになるだろうと思ってずいぶん躊躇《ちゅうちょ》いたしましたが、あんまり気になりますので、思いきっておいでを願いました――じつはわたくし、夢をみました。」
「ははあ、夢を――。」ウォウリング氏はちょっと奇妙な顔をしたが、さすがに笑いはしなかった。「で、どんな夢でしたか。承《うけたまわ》りましょう。」
 この、悲嘆に打ちのめされている夫人の手前だけでも、彼は、笑えなかったのである。すこし逡巡《しゅんじゅん》したのち、夫人はその夢物語をはじめた。
「チャアリイの夢でございます。はっきりと見ました――沼のような、川のような、とにかく水のあるところでした。葦《あし》の間にボウトが浮かんでいます。そのボウトの底に――。」
 警部の顔を一種恐怖に似た驚愕《きょうがく》が走った。
「なんですって? 水? ボウト?」
「ええ。そのボウトの底に、痩《や》せ衰《おとろ》えたチャアリイが、手足を縛られて、倒れていました。わたくしを見て、ママア、ママアと細い声で呼びながら、いつまでも泣いていますの。チャアリイ! と呼んで駈け寄ろうとしますと、自分の声ではっ[#「はっ」に傍点]として眼が覚めました。けれど、いかにもありあり[#「ありあり」に傍点]とした夢で、葦《あし》の葉が風に揺《ゆ》れていたのさえ覚えています――あら! どうなさいまして?」
夫人が仰天《ぎょうてん》したのも無理はない。ウォウリング警部は、みなまで聞かずに、帽子を握り締めて突っ起《た》っていた。

        3

「奥さん!」探偵長はひどく昂奮して、白い顔だった。「不思議なことがあるものですねえ。まったく、気味が悪いほど不思議なことがあるものです。その夢は、いま私どもの持っている確信をいっそう裏づけるばかりです。じつは、誘拐《ゆうかい》者の名は、もう私どものほうにはわかっているのです。モスタアにダグラスという、有名な|河の海賊《リヴア・パイレイト》ではないかと、いや、じゅうぶん信ずるにたる確証が挙《あが》っているのですが、いまのお話で決定したようなものです。必ずチャアリイは、あなたの夢のとおりに、このモスタアとダグラスのボウトに乗せられて、どこかあまり遠くない、葦の生《は》えている川のあたりを漂っているのでしょう。もう大丈夫、こっちのものです。御安心下さい。」
 ウォウリング氏は、自信に満ちて、いよいよ即刻手配すべく、勇躍してロス邸を辞した。
 実際警部は、この二日前に、あるたしかな筋から、モスタアとダグラスに人相の一致する二人の男が幼児を伴《つ》れて、ボルテモア付近の海岸の入江に接続する沼沢《しょうたく》地方をこっそり[#「こっそり」に傍点]とボウトでさまよっているのを見た者があるという、貴重な情報に接していたのだった。そして、事実この時すでに、腕ききの刑事の大部隊がその方面に総動員されていたのだ。が、このロス夫人の夢で見込みを倍加した探偵長は、帰庁するやいな、なおも手落ちのないように追加の警官をぞくぞくと繰り出した。ボルテモア市郊外の沼地に大々的な非常線が張り渡された。逮捕は一日、いや一時間、いや、この一刻の勝負かもしれない――警視庁とロス氏邸は、いまかいまかと吉報を待ち構えて、極度に色めき立った。
 この大がかりな非常線を指揮したのは、ウォウリング氏の同僚ヘデン警部だった。二日たつと、はたしてその部下の一人が、モスタアとダグラスの最近の足跡を嗅《か》ぎつけて来た。すっかり追い詰められて手も足も出なくなっている二人は、昨夜|窮余《きゅうよ》の一策で大胆にも繋留《けいりゅう》ちゅうの河船を襲い、拳銃《ピストル》で番人を脅迫して食糧を奪い去ったというのである。そして、特別に、罎《びん》入りの牛乳を暖めさせて持って行ったと聞いて、捜索隊はさてこそと安堵《あんど》の胸を撫でおろした。これで見ると、まだチャアリイは生きて、彼らと一緒にいるのだ。それに、二人の兇漢《きょうかん》がいかに食物に困っているかもよくわかる。捜査隊はいっそう緊張して、じりじりと網口を縮めていった。が、なにぶんにも地形が悪い。いたるところに泥沼や堰返《せきがえ》しの淀《よど》が隠れていて、地理を知るモスタアとダグラスには絶好の潜《ひそ》み場所を与えている。おまけにこっちは、応援の青年団やら好奇《ものずき》な弥次馬《やじうま》やらでやたらに人数が多いから、ざわめくばかりでも先はいちはやく物音を聞きつけて逃げてしまう。それはじつに、かなり広い地域にわたる、必死の、そして奇妙な鬼ごっこだったといっていい。第一に、彼らはけっして二晩と同じ入江に止まらない。そのため、これはあとでわかったことだが、人狩りの連中は二度も三度も闇黒《あんこく》のなかで獲物のすぐ傍《かたわら》を通りながら、すこしも気のつかないことさえあった。が、最後に、ひとり離れて身長《みたけ》ほどもある葦《あし》を分けていた一警官が、偶然、草むらの水上に隠れている古いボウトを発見した。子供は、寝かされてでもいるのか、見えなかった。髯《ひげ》だらけの男がふたり、ボウトの上から野獣のような眼をして警官を見返していた。夕方のことである。相互から同時に発砲していた。
 が、音を聞いて、付近にいあわせた人々が駈けつけた時は、もう葦《あし》がボウトを呑《の》んでしまったあとだった。まったく、あっという間のことだ。一同はすぐに、胸まで水に浸《つ》かって追跡に移ったが、すでにボウトは、迫る夕靄《ゆうも》と立ち昇る水靄《みずもや》にまぎれて、影も形もなかった。

 しかし、この出来事は、すっかりモスタアとダグラスの心胆《しんたん》を寒からしめたものとみえる。彼らはいよいよ危険を感知して、その夜のうちに狼狽《あわ》てて陸へあがったらしい。水辺にばかり気を取られていた捜査線を見事に突破して、闇黒《くらやみ》とともにいずこへともなく逃走してしまった。たぶんチャアリイを伴《つ》れたまま。
 夜明けに、捜索隊の一部が、昨夜発見の地点から四マイルを隔てた小川の岸に、乗り棄てられた空のボウトに往《ゆ》き当った。そのボウトと並んで、離れないように強い糸で縛った、一隻の玩具《おもちゃ》の小舟が浮かんでいた。玩具《おもちゃ》といっても、木の幹を小刀《ナイフ》一本で削《けず》って、どうやら舟の形に似せたもので、土人の細工《さいく》物のように不器用な、小さな独木舟《まるきぶね》だった。兇漢の一人がチャアリイのために骨を折って、何日かの大騒ぎののち、やっと作り上げたものであることがわかる。それを浮かべて、大喜びで遊んでいるチャアリイの様子が眼に見えるようだ。一同はこの可愛い「手がかり」の拾得《しゅうとく》に、いまさらのように新しい涙の微笑を禁じ得なかった。
 自家《うち》にあっては、どんな高価な、精巧な玩具《おもちゃ》をも手にすることのできる富豪の愛児である。それが誘拐《ゆうかい》されて屋根のないボウトに棲《す》み、何カ月も風雨に曝《さら》されて、こんな物をただ一つの玩具《おもちゃ》に一人で遊んでいたのだ。このチャアリイの舟を見た時は、子供を持つ警官はみんな眼をうるませたという。無理もないと思う。それよりも面白いのは、誘拐した悪漢が、こうして伴《つ》れ歩いているうちに、このチャアリイに愛を感じ出しているらしい一事だ。彼らだって人間だからすこしも不思議はないが、手のかかる子供を抱えて、男ふたりでおおいに困ったことだろうと察しられる。どうせこんな連中だから家庭を持ったことはあるまいし、育児の経験や知識なんか、彼らからは火星ほども遠い神秘の世界だったに相違ないが、泣き止まらない時など、二人の無頼漢《ぶらいかん》がさぞ顔を見合わせて当惑したろうと、その光景を想像することは、ちょっと人間的に愉快である。そして、そのうち一人が、あるいは、両人協力して、まるで父親みたいに、ボウトの中で日向《ひなた》ぼっこでもしながら、チャアリイのためにこの玩具《おもちゃ》の舟を拵《こしら》えて、「こら、チャア公! 毀《こわ》すんじゃあねえぞ」なんかと、多分の威厳とともに与えたのだ。おそらくは、もう「チャア公」になりきっているであろうチャアリイが、「うん、毀しゃしねえや」ぐらいの返答をしたにちがいないと心描することは、不自然でなかろう。

 その間も、フィラデルフィアのロス氏のもとへは、一通ごとに脅威を強調した誘拐《ゆうかい》者の手紙が、間断なく配達されていた。身代《みのしろ》金は、五万ドルにまで競《せ》りあがっていた。もう一日の猶予《ゆうよ》もならない。即座に金額を払わなければ、チャアリイの眼を硫酸で焼いてしまうといってきた。
 こうして、ロス氏夫妻の苦悩と全米の騒ぎが頂天に達した時である。ふと[#「ふと」に傍点]したことからあれほど頑強だったモスタアとダグラスの二人が明るみへ引き出されて、事件は、急転直下的に、ともかく表面は解決を告げたのだった。
 チャアリイが誘拐《ゆうかい》されてから五ヵ月あまり経過した。十二月十四日の深夜、ベイ・リッジというところにあるヴァン・ブラント氏の家へ押し込もうとしていた二人組の強盗が、物音を聞いて起き出た同家の執事《バトラア》によって発見された。まだはいらないで、窓ガラスを切ろうとしている現場だった。幸いこの家は男手が多かった。主人のヴァン・ブラント氏と息子と、それに運転手や料理人や召使たちが、手に手に短銃を擬して強盗に立ち向った。巡査が駈《か》けつけたのも、珍らしく早かった。強盗は勇敢な抵抗を開始した。広大な芝生の庭で拳銃戦がはじまった。家の者は窓へ倚《よ》って発
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