夏の夕ぐれこそは、じつに古今の犯罪史に比類を見ない、一つの小説的悲劇が、これから高速度に進展しようとする、そのほん[#「ほん」に傍点]の緒《いとぐち》にすぎなかったとは、当のロス氏をはじめだれも気がつかなかったのだ。しかし、こうして突然フィラデルフィアの富豪ロス氏の家からいなくなった、三つになるこの愛息 Charlie Ross ほど、そしてそれを序曲として開幕されたあの劇的場面の連続ほど、奇怪な特異性に富む事実物語はまたとないであろう。
僕はいま、すべての作家的手法を排除して、その一伍一什《いちぶしじゅう》をここに詳述してみたいと思う。
暗くなっても帰らないから、ロス氏もすこしあわてだした。ともかく、所轄《しょかつ》署へ電話をかけて二児の捜索を依頼すると同時に、心あたりの知人の許《もと》や、近所の家へも人を遣《や》って聞きあわしてみた。もとより七つに三つの子供である。人を訪問するわけもないし、よしかりに遊びに来たとしても、日が暮れるまでロス氏のほうへ知らせずに引き止めておく家もあるまい。いわゆる御飯時だというので、召使でも付けて返してよこすはずだ。したがって、このロス氏の個人的捜査は、はじめからあまり期待もかけなかったとおりに、全然無効に終った。二人はどこの家へも行っていないのである。が、いよいよそうとわかると、ロス氏は初めて真剣に騒ぎ出していた。
いっぽうロス氏の電話を受け取った所轄《しょかつ》署はさっそく管内に散らばる警官に非常|通牒《つうちょう》を発してロス兄弟の影を見張らせたが、虫の知らせとでもいおうか、署長はこれだけではなんとなく不安を感じて、すぐさま中央署へ通知して助力と指揮を仰《あお》いだ。これはたんに、依頼人がロス氏というビジネス界と市政の大立物《おおだてもの》なので、とくに大事をとったにすぎなかったのかもしれないが、この署長の措置《そち》は、おおいに機宜《きぎ》を得たものとして、のちのちまで長く一般の好評を博したのだった。中央署も、相手がロス氏とあってただちに活動を開始した。映画で見るように、詰襟《つめえり》の制服に胸へ洋銀《ニッケル》の証章《バッジ》を付けた丸腰の警官隊が、棍棒を振りまわし、チュウイング・ガムを噛みながら八方へ飛んだ。私服も参加した。一瞬のうちに電話のベルが全市の分署へ鳴り響いて、宵の口のフィラデルフィアにたちまち物々し
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