が怖《おっ》かなかったんだよ」
発育不全の柏原富次は、日蔭の草みたいによろけて杉本の肩を捉えた。彼は教師の温かい頸筋に、臭い彼の鼻加多児《びカタル》のいきを押しつけた。そして汚れた尻から腿《もも》を拭いてもらい、何か肉体的な幸福をぽっと面に漲《みなぎ》らし低い声で話しだした。
「あたいん家《ち》はね、震災に焼けっちまったんだとさ、お店だったんだって――おっ母さんがね、そん時びっくりした拍子に、あたいを産《う》んじゃったんだって――だからあたいは地震っ子て呼ばれてらあ」富次はそう言いながら、いつの間にかその細い腕を教師の頸に捲きつけていた。そしてその眼は埃っぽい教室の白い壁に注ぎ、そこにあわれな未来を描きだして喋りつづけた。「ね、父ちゃんが死んじゃったら、おっ母ちゃんは、肺病やみじゃないまた別の父ちゃんを捜すんだってさ、そいからまたお店を出して……お店をね、ああらら……」富次はきゅうに声を低め杉本の耳に口を寄せた。
「校長先生がはいってきたよ、あらら……やんなっちまうあ」
底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
※伏字と思われ
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