て杉本は、なぜかほっと胸の閊《つか》えを吐きだすのであった。
 窓ぎわにいた塚原が今度は立ちあがった。年じゅうきょろきょろしている彼は、「注意散漫」という特性が刻印されていた。だが彼はその時、瞬間的な義憤に口から泡をとばして元木武夫に喰ってかかった。
「元木のばか野郎――大久保彦ぜえもんにお内儀さんなんどいるもんけえ、すっこんでろ、やい元木!」それだけ喚きとばした塚原の注意は、次の瞬間さっと窓外の雨に向き替っていた。梧桐《あおぎり》の広葉が眼の下に見え、灰色にくすんだ運動場は雨の底にしぶいていた。そしてふたたび教師にその眼を移したのであるが、その時、塚原義夫のきょとんとした黒い瞳には珍らしく泪《なみだ》が浮んでいるのであった。
「先生え、あたいん家《ち》にはね、あたいの父《ちゃん》にはお内儀さんがいねえんだよ」
「ば、ば、ばかだなあ――お前」と元木が教師の下から喚いて両手を自分の鼻先に泳がし劇《はげ》しく否定した。「ばかッ! あたいん家のお内儀さんなんて鬼婆あだい。塚原あ――大人《おとな》はみんなお内儀さんがあってな、そんでお前大人は、な、お内儀さんばっか可愛がってんだぞお……」
 塚
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