卓に頬杖をついた杉本も、子供たちとお互の面をあらためて見合わせる――歯の抜けた痕《あと》のように、元木武夫の席が空いていた。無力な教師は、顔をしかめてぼんやりしていた。その顔を見て子供たちはことさらおどけ、眼を釣りあげたり歯をむいたりしてみせる。どうかして朗らかになりたいと子供たちも焦るのである。
「先生え――」ぽかっと、古沼に浮きあがった水泡のように、思いがけなく塚原義夫が立ちあがった。「先生え、修身、修身――また修身をやろうよ、よう!」
 すると、にたにたしながらすぐに喋りだす元木武夫はもういなかった。もったいぶってしゃしゃ張りだす例の久慈恵介は、先刻の衝げきがまだ彼の頭から完全に消えず、赤らんだ瞳をきょとんとさせているだけであった。涎を垂らしている子供、青っ洟《ぱな》を少しずつ舐めている子供、うしろにのけ反《ぞ》ったり、机にうつ伏せたり、脚を腰かけの横にぬーっと出してまるで倒れかかった自分の身体を危く支えたりしていた子供たちが、徐々にざわめきだした。一番うしろの机にいた大柄の子供が、突然「ふはあ――」と欠伸《あくび》をした。子供たちはいっせいにそちらを振り向いた。三つの年に脳膜炎を患《わずら》ったその子は、命だけは不思議に助かったが、いつも天井を見ていた。無類に模範的におとなしい彼は何を聞いても耳にはいらなかったし、何も言いたいことを持っていなかった。とうとう塚原は焦《じ》れて足を踏み鳴らした。
「先生――修身だってば、さ!」
 川上忠一が廊下側から立ちあがった。
「あたいが修身をしてやらあ」
「ちえっ、手前の話なんか聞きたかねえや」と目玉をひんむいた錺屋《かざりや》の子が叫んだ。
「やれ、やれ」と塚原は音頭を取った。「先生、邪魔になるからそこを退《ど》きな、川上が修身をやんだからさ、早く退きな」
 川上忠一は右肩をいからかして教卓の前に直立不動の姿勢をつくり、ぺこんと頭を低《さ》げた。それから薄い唇をぺちゃぺちゃと舐めてみんなを見まわした。
「あたいが三つの時のことなんだ、しんさい[#「しんさい」に傍点]があってさ、関東大震災でじゃんじゃん家が燃えちまってさ」
 しんさい――と聞いて子供たちの呟きがなぜか一時に停《とま》るのであった。何かこれら不幸な子供の胸底にひっそり潜在していたものが、その一語でぐらっとひっくりかえり、そのぶ気味さに当わくしたような沈黙であった。杉本は窓の外に身体を外《そ》らして雲のすっとんでいる怪しいこの空模様が川上忠一にこんな話題を憶《おも》い起さしたのか、それとも年に一度の身体検査にひねくりまわされた彼らの皮膚の、いやな感覚がそうさせたものかと思い、話手の顔を見なおした。白眼を剥《む》いて天井の一角を睨まえている川上忠一の尖った顔には深い隈が刻まれていた。しばらくそうやっていて、そして彼はやっと、これから喋ろうとする状景を再現した。彼は歯ぐきをむきだしてにたりと笑った。
「あのね、そん時あたいのもとのあげ羽丸も焼けちゃった。あたいは死にもの狂いで河にとびこんだ。深川は危ぶねえってんで、ほら知ってんだろう? 東清倉庫に避難したんだよ。あそこは石だから燃えねえや。そいでもっていっぱい人が逃げてきてよ、あたいはそん時おっ母がいたんだぞ。お前東清倉庫は八幡様の縁日よか人がうじゃうじゃしたんだよ」川上はふいと口を噤《つぐ》みまた天井を睨んで次の記憶を思い描きだした。聞いている子供たちは下手な話手の言葉から、もはや遺伝になっているその凄惨な状景を描き、脅《おび》えることに満足していた。「日本刀を持ったおっかねえ人がお前え、…………………だなって、こうだ」川上はさっと一太刀浴せかける恰好を見せた。「そいからこんなでっかい針金でもってね、………………………………………………、……………………………………………………」しかし、その時の手ぶりは途中でわなわなふるえだし彼は蒼ざめて自分から溜息をついてしまった。「ああ、おっかねえ――」
「手前、見てたのか?」と塚原がせきこんだ。
「見てたとも――」川上はそう答えて、はずむ呼吸を抑え、傲然《ごうぜん》といい放った。「あたいはそん時三つだったんだ!」
「そ、そいから? そいからどうした?」
「そいからお前、大河に………………………………」
「死んだんだなあ――」がっくり首を落しいま一人の子が痛々しそうに呟いた。川上忠一はそれには見向きもせず、今はその話に自分から夢中になってきた。
「手前も……だろう――って言われた時にゃあ、あたいも肝《きも》っ玉がふっとんじゃったぞ。活動写真たあまるっきり違うんだからな」
 窓側の一番前にいるさい槌頭[#「さい槌頭」に傍点]の阿部が、その時がたがた立ちあがり、当てずっぽうに杉本を呼ぶのであった。
「先生え? 先生!」
「うるせえ、すっこ
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング