んでろう――阿部!」
 話にわくわくしていた塚原が、半畳《はんじょう》を入れた阿部にがなりつけた。彼はとびだして行くが早いか、その小さな子供をつき倒した。
「頭でっかち、すっこんでろ!」そう大喝して、くるっと川上に向きなおりはげしく促した。「そいで……そいで、それからどうした?」
 ところが倒された阿部はむっくり起きなおって、じろじろ教室じゅうを見わたした。彼は後の方の机にちょこんと腰を下している杉本を発見した。阿部はぽんと跳ねあがり盲《めくら》めっぽうの迅《はや》さで杉本の頭に抱きついた。
「先生、先生ッ! 大変だ、柏原が、うんこを洩らしちゃった、うんこ――」
 杉本がようやく腰をあげると、阿部は拍子をとって床を踏みならし、節おもしろく叫ぶのであった。
「あ、うんこだ、うんこだ、柏原うんこだ」
 みんな一度にがたがた立ちあがった時、塚原義夫が川上忠一を殴りつけていた。
「やい、手前嘘を吐《つ》け! あたいのおっ母はおっ潰されたんだぞ、やい!」

「杉本さん、あんまりだらしがなさすぎますぜ、尋常四年生じゃねえんですか、そりゃ掃除をしろと命令されりゃあ掃除もしましょう、しかし何しろ――」そう言って例の使丁は銜《くわ》えた煙管《きせる》を取ろうともしなかった。「わしらあこうしていても手は塞《ふさ》がっているんだ、区役所から校長さんのお客様が見えられるはずだし……」
「そうかい、じゃ僕が片づけよう」
 杉本は塵取に灰を掬《すく》い、雑巾とばけつをさげて小使室から三階にあがるのであった。
 子供たちは、汚れない机を片づけてしまった。白墨で大きな輪を描いていた。その輪の中心に不覚にも洩らしてしまった柏原富次が、先刻のままじっと腰かけていた。
「今日はこれでおしまいだ、帰りたいものはしずかに帰んなよ」
 だが教師のその言葉に一人として動きだすものはなかった。子供たちは土俵のような円い白墨の輪を取り囲んで、床の上に蹲っていた。行儀よく片唾《かたず》をのんで、仲間の不幸をいたむように口も利かずに坐っていた。
 杉本は富次の身体を腰から立たしてやった。「腹をこわしてたんだなあ――さあ、とにかくその着物を脱《ぬ》いで……どら、こっちに来な、あんまり大食いをした罰かな?」
「ちがうよ――」柏原は動かされるままになりながら、一言否定するのであった。「あたいはしんさい[#「しんさい」に傍点]が怖《おっ》かなかったんだよ」
 発育不全の柏原富次は、日蔭の草みたいによろけて杉本の肩を捉えた。彼は教師の温かい頸筋に、臭い彼の鼻加多児《びカタル》のいきを押しつけた。そして汚れた尻から腿《もも》を拭いてもらい、何か肉体的な幸福をぽっと面に漲《みなぎ》らし低い声で話しだした。
「あたいん家《ち》はね、震災に焼けっちまったんだとさ、お店だったんだって――おっ母さんがね、そん時びっくりした拍子に、あたいを産《う》んじゃったんだって――だからあたいは地震っ子て呼ばれてらあ」富次はそう言いながら、いつの間にかその細い腕を教師の頸に捲きつけていた。そしてその眼は埃っぽい教室の白い壁に注ぎ、そこにあわれな未来を描きだして喋りつづけた。「ね、父ちゃんが死んじゃったら、おっ母ちゃんは、肺病やみじゃないまた別の父ちゃんを捜すんだってさ、そいからまたお店を出して……お店をね、ああらら……」富次はきゅうに声を低め杉本の耳に口を寄せた。
「校長先生がはいってきたよ、あらら……やんなっちまうあ」



底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
   1970(昭和45)年1月25日発行
※伏字と思われる箇所が「…」で表されています。これは底本通りです。
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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