れぞれの家に辿《たど》り着くまでの責任はやっぱり教師にあるというのであった。しかし今日の責任は、いやがるその子供を日没まで引き止めていただけに、杉本はいても立ってもいられぬようにそわそわした。「先生さまあ――」とその父親はもう子供がなくなったように口説きつづけた。「あの野郎は親思いで今日まで一ぺんも心配かけたことはねえのに、はあ、今日という今日はどうしたことでしたか……」
 街はすっかり暮れていた。二人は肩を並べて歩いた。親父は行き交う子供の顔をいちいちのぞきこみながら、いなくなっては生き甲斐もないという大切な子供について、語り止まなかった。
「あっしらは船の商売で――だもんで、永代橋さ戻ってみたらば野郎の姿が見えねえ。はて、らんかん[#「らんかん」に傍点]の下にでも蹲《かが》んでるかと、あの長え橋を三べんとこ往復しやした。三時の約束でしたが、ああ、久しぶりに仕事にありついたばっかしに、ちっとばかり慾を出して、つまり天罰ちもんでしょうか?」浅野セメントから新大橋をわたり、船頭はも一度芝浦まで歩こうと言うのであった。「まず交番に届けておこうではないか?」という杉本を彼は手をふって否定し、「交番ちものは――」と説明した。「あっしら風情には、つまり性に合わねえもんで」それでは永代橋から電車に乗ろうという杉本に今度は懇願した。「野郎も毎日歩いてるでがす、今日はひやく[#「ひやく」に傍点]も持ってねえから野郎も歩いたでがしょう。見落しちゃっちゃ可愛そうでがすからなあ」そして、橋という橋にさしかかると親爺の歩調はきゅうにのろくなり、そこえらの溝水に纜《もや》っている船を注意ぶかく覗きこむのであった。しばらくうろうろして、そこで影さえ見あたらぬのを知ると、親爺は得態の知れない都会の底にあがいている伜を思い描き、腹の底から溜息を絞った。銀座では人間の河が舗道を洗っていた。その人波に逆って行く二人はいつの間にかぴたり身体を寄せ合っていた。「先生さまあ――」と親爺は行き交う人間の顔に眼を光らせながら、なおも語りつづけた。「忠の野郎ははきはき勉学してますかね? はあ、今日様《こんにちさま》を生きるにゃあ学ほど大切なものはねえ、あっしもせめては発動機の運転手になりてえもんだと、そうっ――と、都合十六ぺんがとこは試験を受けやしたが、はっはっは……学がねえものはだめの皮よ。あっしゃ決心したんだ! 忠の野郎はたとえ水を飲んでも学校さあげねばなんねえ、と、ね? よろしく頼みますで先生さま、ああ、えらく立派な人ばかし歩いてるが、こんな人はさぞや学があんでしょうなあ――先生様あ?」
 ゴー・ストップに遮られた親爺は、淀んだ人混みの中であるのもかまわず、「ああ学さえあれば!」と絶望的にたからかな叫び声をあげ、めちゃくちゃに明滅しているネオンサインのあくどい光が、痩せた船頭の顔を異様に彩色するのであった。

     四

 不仕合《ふしあ》わせに育った子供の一人である塚原義夫を、ちっとばかり幸福にしてやるために――つまりは彼の特質である哀しい注意散漫を削ってやるための一つは、○・五しかない視力を近眼鏡で補ってやることであった。その子のためにこれくらいのことは当然だろう――と教師は決心しそれから父親宛に手紙を書くのである。「御子供さんの勉強が一段と進むことは、まったく火を見るよりも明らかなことで、義夫君も大よろこびをしていますから――」だがその日のうちに、その父親はおそろしく達者な巻舌で、湯気を立てながら我鳴りこんできた。
「べらぼうめえ、そんなお銭《あし》がころがってたらば、だなあ――こちとら親子がな、おい、先生! 三日がところお飯《まんま》にありつけようというもんだ。こんな餓鬼にお前、眼鏡なんてしゃら臭くて掛けられっかてんだ。学校で要るってならば、お前さんさっさと買っとくれ!」
 うすら禿の頭の地まで真赤にし、ぱっぱと唾を反《そ》っ歯《ぱ》の合間から撥きだしながら、そんなにも昂奮してみせるのであるが、じつはこの父親も、一度は眼鏡屋を訪れてみたのであった。しかし教師の前では勝手にしやがれと自暴自棄にわめきたてていた。「それではあんまり可哀そうだ――」と杉本はつい口を辷《すべ》らかして義夫のために骨折ろうとするのである。ところが親爺はこのもののわからぬ教師を今度は本気で呶鳴りつけた。
「か、かあいそうなのはこちとらじゃねえか! 腕を持ってて腕が使えねえこんな娑婆《しゃば》に生きながらえているこちとらじゃねえか! 子供のことまで文句をつけてもらうめえ」
 子供は学校にあげねばならぬおきて[#「おきて」に傍点]だというから上げている。数年前、米屋が桝《ます》を使用していた時代には彼は錚々《そうそう》たる職人として桝取業をしていた。彼の腕にかかれば、必要に応じて、一斗の米
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