はり倒してやらあ……」
そのはげしい語気に衝《つ》かれて杉本は思わず「なるほどなあ」と声をあげ、検査用紙をばさりと閉じてしまった。すると、川上忠一の痩せとがった顔がもう全然別な憂愁《ゆうしゅう》に蔽《おお》われていた。彼は暮色の迫った窓を見つめだした。コンクリートの教室はうす墨いろに暮れていた。ぶるっと身ぶるいを出して彼は血の気の失せた薄い唇を舐《な》め今さらのように教室を見まわした。それから彼は、もはや教師の存在を無視してさっさと腰をあげた。「暗くなってきたなあ――」と杉本は一言つぶやいた。川上忠一はその声にまた突然学校を思いだしたらしく、気味わるげに教師の顔色をのぞきこむのであった。しかし、こんな夕方になっては、どうしてもこれ以上先生の意志に譲歩することができないと思った。「あたいはもう失敬するぜ、何しろ父《ちゃん》が心配するからな」と呟《つぶや》いて自分の鞄を手許に引き寄せた。引き寄せてはみたが、長い間学校に虐《いじ》めつづけられてきたこの子供は、教師の顔色をいっそう覗きこみながら、身体は扉口に進め、首だけはうしろに向いて動かないのであった。杉本は鼠色になった教室の壁を見つめてぼんやりしていた。とうとう扉に手をかけた川上忠一は、決心してわめいた。「あたいは帰るよ、いいかい? 父《ちゃん》の晩飯を炊《た》かんきゃならねえし――それに、あたいの家がなくなっちまうからよ!」それを喚きおわるが早いか、彼はぺこんと習慣になった敬礼を残して、扉をはね開けた。一足教室の外に出て教師の眼をのがれたと思うと、子供は一ぺんに重荷をおろした気がし、あとは綱を断たれた野獣のような猛々しさを取り戻して長い階段を一気に駈け下りるのであった。
杉本は暗くなった教室にしばらくそのまま頬杖をついてぼんやり考えていた。彼の意気込みにもかかわらず川上忠一の智能指数はやっぱり八○に満たないのである。測定したあとの、あのもやもやした捉えどころのない不愉快が今はことさら強く彼の頭に噛みついてくるのであった。それが真実に子供たちの運命を予言しうるものとすれば(実験の結果によれば――と当代の心理学者が権威をもって発表する)コノ指数ニ満タザルモノハトウテイ社会有用ノ人間タルコトヲ得ズ。「この社会! この社会!」と杉本は繰りかえした。えらい心理学者や教育学者たちが規準にした「この社会」と、そこから不合格の不良品として選びわけられ、今は彼に預けられた、低能な子供たちの住む「この社会」とは、同じ「この社会」でも社会の質が異っていた。そっちの社会で要求している……川上忠一も素気なく拒否したのだ。そうして彼は抗議する――何だってそんな巡査みたいなことを訊くんだい? 杉本は自嘲的に自分の職業を三つの単語で合唱する――「べからず、いけない、なりません」そいつにぐわんと抗議して川上忠一は教室をとびだして行った。一本お面を喰ってふらふらとまいった杉本は、…………………………、「…………、…………!」と叫びたい気持になってきた。杉本はうす闇の中でにやり歯を出して笑い、さておもむろに腰をあげた。すると、朝の八時からこんな日の暮れまでいらだてつづけていた神経が一度に崩れ、身体がくたくたに疲れているのを発見した。その杉本を、図体の大きな使丁がこれもいらいらしながら捜しあてたのであった。
「杉本さん、大変だぜ」と使丁がどなった。
「横着な面をするない」と杉本もどなりかえしていた。
昇降口に仁王立ちになっていた使丁はむっとした。帰り仕度をしてしまった杉本も、それを見ていっそうむっとした。年がら年じゅうこづきまわされている彼らは、これだけは自分の自由意志だと思いこんだものがぐわんと阻《はば》まれるその刹那に、想像できないほどの敵愾心《てきがいしん》を煽《あお》られるのであった。こんな平教員に舐《な》められるものかという風に使丁は明らかに冷笑を浮べて、「へへえ……これだよ杉本さん」と自分の首筋をたたいてみせた。「子供が紛失してお前さん、親爺さんが泣きこんできてらあ」
「なにいッ?」と杉本は棒立ちになった。
「お前さん子供がどうだっていいと言うならば、校長さんに話さにゃならんが……」
「いや――」と杉本は使丁を停め「俺が捜してみせる」と呶鳴った。そして小使室に駈けこんだが、彼は自分のその行動がきゅうに忌々《いまいま》しくなってそこから振りかえりざま声を荒くした。
「か、勝手にしろ」
だが、小使室にしょんぼりしていた川上忠一の父親は、一ぺんに神経を取り戻して「先生さまあ――」と悲鳴をあげた。「あとにも先にもたった一人の伜でがして、なあ、先生さまあ……」
彼はそう言って、胸に漲《みなぎ》っていた心痛のはけ口を杉本に向け、潮くさい身体をやたらに折り曲げるのであった。
学校の門を出てからの子供が、そ
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング