て杉本は、なぜかほっと胸の閊《つか》えを吐きだすのであった。
 窓ぎわにいた塚原が今度は立ちあがった。年じゅうきょろきょろしている彼は、「注意散漫」という特性が刻印されていた。だが彼はその時、瞬間的な義憤に口から泡をとばして元木武夫に喰ってかかった。
「元木のばか野郎――大久保彦ぜえもんにお内儀さんなんどいるもんけえ、すっこんでろ、やい元木!」それだけ喚きとばした塚原の注意は、次の瞬間さっと窓外の雨に向き替っていた。梧桐《あおぎり》の広葉が眼の下に見え、灰色にくすんだ運動場は雨の底にしぶいていた。そしてふたたび教師にその眼を移したのであるが、その時、塚原義夫のきょとんとした黒い瞳には珍らしく泪《なみだ》が浮んでいるのであった。
「先生え、あたいん家《ち》にはね、あたいの父《ちゃん》にはお内儀さんがいねえんだよ」
「ば、ば、ばかだなあ――お前」と元木が教師の下から喚いて両手を自分の鼻先に泳がし劇《はげ》しく否定した。「ばかッ! あたいん家のお内儀さんなんて鬼婆あだい。塚原あ――大人《おとな》はみんなお内儀さんがあってな、そんでお前大人は、な、お内儀さんばっか可愛がってんだぞお……」
 塚原は自分の瞼をぐいと操りあげ「野郎――」と罵《ののし》りかえした、「八幡さまに手前のことを呪ってやるから、おぼえてろお…………」
 順序も連絡もなくその子供らの考はぷくぷくと浮びあがった。しかしそのおそろしくばかげた喚きの底には、彼らの生活がのぞいていた。だから低能児なんだと言うが、杉本は彼らと暮しているうちに泡の底が見透けてきて「止めろ、止めないか!」と強圧することができないのだ。もしこの時廊下側の座席から久慈恵介が持ち前の金切声をふり絞って、「うるせえ、止めやがれ!」と飛びださなければ、二人の子供は殴り合いを初めそうにいきまきだしたのである。珍らしく小ざっぱりした小倉服の久慈は、かあいい眼をくりくり動かして「あのねえ――先生え」とつづけるのであった。「あのね、先生、元木の奴はね、あのね、壁いっぱいに変な絵を書きちらしました。あたいんちの………………だなんて言って、そいでもってさっきも塚原と喧嘩をしたんですよ、元木の奴は……」
 すると子供たちの眼は靡《なび》くようにいっせいに久慈を見つめた。彼はそういう風に注目されることが嬉しかった。傲然《ごうぜん》と反《そ》り身になって重々しく身体を後に向かせ、背後の白い壁をじっと指さして示した。
「ほーらねえ? 見えるだろう? 赤鉛ぺつ[#「ぺつ」に傍点]で書いてさ、ほーら、見えるだろう、ほーら」
 杉本はその指に導かれてのそりのそり壁に近づくのであった。近づくにしたがってその楽書はしだいにはっきりしてきた。まったくその絵が絵として眼に映ると、彼の背筋がきゅうにぞくぞく粟立《あわだ》ってきた。なぜか恐ろしさと恥しさとに打たれて、彼は棒立ちになった。子供たちもまた緊張して声をのんだ。彼らは咄嗟《とっさ》にこの壁がどんなに大切なものであるかを思いだした。不機嫌に蒼ざめたこの教師が、壁を汚したことによってどんなに怒り猛るかしれないと思うのであった。すると何年かの間学校生活を余儀なくされた子供たちは、得体の知れない恐怖を描いて硬直してしまった。しかし杉本は反対に今は泣きたくなったのだ。「元木――」と彼は壁に面したまま子供を呼んだ。「お前はたいした凄い画描きさんだなあ、それだのにどうして学校の図画は……」そう言いかけて彼は咽喉がつまってしまった。楽書は赤鉛筆の心を舐《な》め舐め書かれた……であった。悲壮な顔をした男の脛には…………………さえ植えられていた。おずおずと教師に近づいた元木は、「おい、お前は!」と叫んで、がっちと自分の肩を押えた杉本を見あげるのであった。彼は教師の顔色からそれが怒りだす気持でないのを敏感に見て取ると、「先生――あたいは画がうまいだろう?」と言い放った。杉本は唇を噛んでまるで歔唏《すすりな》きを堪えるような顔をした。すると元木は教師の腕をとらえて「先生、あたいの絵よくできてんのかい?」とまた催促した。しかし杉本は急《いそ》がしく瞬きしながら言うのである。
「はやく消さなきゃ、元木、校長先生にどやされるぞ」
 それを聞くと彼は「や!」と叫んでとび上った。「いけねえ――あ、いけねえ!」
 たった一人のその声で教室じゅうが一時にざわめきだした。いけねえと気づいた時、彼らの頭にも反射的に消さねばならぬことが浮んだ。そう思うと彼らは一刻もじっと耐えることができなかった。白墨をこすりつけてみた、雑巾を一なで撫《な》でまわした子は泣きだした。二三人の子はばけつの尻を鳴らして水汲みに駈けだした。
 厚いコンクリートの壁を揺ぶって、この騒音はふたたび全校舎にとどろいた。しかしここでは全員が一生懸命なのである。
前へ 次へ
全14ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング