とを待ち設《もう》けている恰好はしていたが、じつのところそれは何年かの学校生活で養われた一つの習慣であった。低能児はそれにふさわしくぽかんとそうしている。教師もまたぽかんとして子供の顔を一眸におさめていた。
「先生――」と思いだしてまた一人が叫ぶのであった。「さ、早く修身をやろうよ、先生……」
「よろしい、では修身!」
それを聞くと子供たちはがたがた机の蓋《ふた》を鳴らした。彼らは薄っぺらなその教科書をひきずりだす。そして中には足をふみならして何か喜ばしそうに、修身だあ修身だあと節をつけたり口笛を吹いたりした。
杉本は教案簿をぱたりと開く、とそこには、勤勉という題下に三井某の灯心行商がこまごまと書きこまれてあり、「きんべんは成功のもとい」という格言まで書きこまれてあった。杉本は前の日いろいろな参考書を検《しら》べてその教材を準備した。だが今、こんながらん洞の子供の顔を視て彼はしだいにその努力が情なくなり、最後には…………………………、教案簿を閉じてしまう。すると一人の子供がにょっきり棒立ちになった。
「先生!」と彼は叫んで股倉《またぐら》を押えた。「おしっこ、よう、ちえっちえっちえ……まかれてしまうよう!」
一人の子供の尿意がたちまちすべての子供に感染した。「先生あたいも」「あっ、まけそうだ」「やらせなきゃあ垂れ流しちまうから」「あたいもだあ」そう口々に連呼しながら彼らは廊下に駈けだした。もはや成り行きに委《まか》せるよりほかはなかった。杉本の耳はがんがん遠くなり咽喉はかすれた。彼はぼんやりつっ立っていた。
図体の大きい使丁が物音に駭《おどろ》いて凄い剣幕を見せながら跳びこんでくる、彼は気短かに呶鳴り続けた。この教室の騒々《そうぞう》しさがコンクリートの壁をとおして他の課業を妨害《ぼうがい》するというのである。がなっていた使丁は、自分の声に駭いてきゅうに静まった教室を見まわし、ちょっと気まずげに言い足した――「何ですぜ杉本さん、校長さんが湯気をたててんだからねえ――」
杉本はその間に、やっぱり今日の修身も講談にしようと決心した。修身修身と言ってよろこぶ子供たちもまた、それによって「あとはこの次に」なっていた講談を思い浮べていた。
「先生――大久保彦ぜえ門!」と子供が催促した。「よし、彦左衛門」と杉本は答える。それを合図に子供たちはいずまいを正し、ごくりと唾をのみこむ音が聞えるのであった。教師はもうやけくそ[#「やけくそ」に傍点]になって御前試合の一くさりに手ぶり身ぶりまで加える。その最高潮に達したところで、席の真中にいた一人の子供が、ふたたびぴょこんと立ちあがった。
「先生え……ちょ、ちょっ、ちょっと」
「何んだ? 元木――」
しかし元木武夫はもう自分の席からとびだしてきて、ぬうっと教師の鼻の下につっ立つのであった。そうしたとっぴな行動に杉本は馴れきっていた。彼は元木を無視してさらに話をつづけだした。所在なくなったその子供は教卓に凭《もた》れかかった。そこからしばらく、がくがくと動いている教師の顎を眺め、眺めているうちに彼のだらしない唇のすみからは涎《よだれ》が垂れ落ちた。元木武夫は首をおとした。そして教卓にたまった涎の海に指をつっこみでたらめな絵を描き、その絵がまだ描きあがらぬうちにはたと自分の疑問に思い当った。もはや矢も楯もたまらなくなるのであった。「先生!」とひときわ高らかに叫んで教師の腰にぱっとしがみついた。元木は「大久保彦ぜえ門のお内儀さんは意地悪るばばあだったのかい」と一気に叫びつづけ、「ようよう、よう」とその腰骨を揺ぶるのであった。とたんに杉本は一足身体を退き子供のまじめくさった質問を避けようとした。すると元木武夫はくわっと逆上し、どがんと教師の股倉《またぐら》めがけて殴りつけてきた。
「よう――先生ッ!」
ふいを喰った杉本は、腰を曲げて両手に股倉を蔽い、瞬間とまった呼吸を呼び戻そうとした。そのおかしな恰好に元木武夫はまたもや自分の質問を忘れ、眼尻を下げてひとりげらげら笑いつづけていた。
教室が珍らしくしーんと静まるのであった。四十の並んだ顔が、今はこの話に異常な興味をそそられていた。杉本は自分の不ざまな恰好に気がついて子供たちを見まわした。が彼らの顔つきは、ただこの教師から出る返答を求めているにすぎなかった。杉本は恥しさに顔が火照《ほて》ってきた。奇妙な性格の元木武夫にぽかんと浮んだであろう大久保彦左衛門の女房が、何かものわかりの鈍いとされている児童の心をひどく打ったのである。劇《はげ》しく光る四十対の瞳に射すくめられて、解答をあたええない教師の顔はやがてしだいに蒼ざめてきた。すると元木武夫は、堰《せき》を突然断つようにげらげらまた笑いはじめる。教室の緊張がどっと破れてしまった。その騒音に包まれ
前へ
次へ
全14ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング