杉本は上着を投げ捨てていた。彼はナイフの刃を壁にあてた。白い粉がざらざら削り落され、そのあとにはコンクリの生地が鼠色に凹んで行った。白くしなければならぬという考えが裏切られることに腹が立つのであるか――杉本は額から汗を流して昂奮した、そして自分のおおげさな激情のばからしさにいっそういらだっていた。
 その時突然冷水を浴びたように騒音が消えるのであった。杉本は枕を蹴とばされたような駭《おどろ》きに周囲を忙しく見まわす、すると彼の鼻先に、白髪あたまの校長がずんぐり迫っていた。
「何をしとるかね?」と校長が訊ねた。
「壁はまっ白にしなきゃならんですからね――」
 冷然と疑り深い眼を角立てていた校長は、いかにもわざとらしく神妙をよそおって各自の席についた子供たちを、まんべんなく一瞥した。杉本はその眼につれて自分も子供たちを見まわし、「なあ、皆あ――」と話しかけた。「壁は大切なもんなんだからなあ――」
「うん、そうだよ、大切だよ」と一番先頭の席にいた福助そのままの阿部が、さっと立ち上るなり大きくさいづち[#「さいづち」に傍点]頭を頷かせた。校長の顔がそれに向きなおり満足らしくたちまち瞼を細くする。するとあたかもそれを待ちかまえていたかのように阿部は「ちえッ!」と舌打ちした。「あたい、嫌んなっちまうなあ、変な顔してそんなに睨むなよ、ちえっ、おかしくって!」

     三

 それほど本当のことを何の怖気もなくぱっぱっと言ってしまう子供たちから、受持教師の杉本は低能児という烙印《らくいん》を抹殺したいとあせるのであった。もしこの小学校の特殊施設として誇っている智能測定が、まことに科学的であるというならば、子供の叫ぶ真実が軽蔑される理由はないではないか――「なあ……」と杉本は話しかける。「お前の思うとおりをじゃんじゃん答えるんだぞ。父《ちゃん》はどんな職業《しょうばい》だい?」
 しかし放課後をひとりあとまで残された川上忠一は、それだけですでにおどおどしていた。数え年の十三歳(生活年齢は十二年と五カ月)で尋常四年生の彼は原級|留置《とめおき》を二度も喰った落第坊主だった。けれども父親にしてみれば、何とかしてこの子を――と思うのである。「何ちったってこいつを真から知ってんのはあっしですよ」と保護者の父親は学校の床に膝を折って懇願した。「家にいる時あ、とても頭がいいんだが、学校じゃあ丙やら丁やらで……なるほど、あっしら風情の餓鬼あ行儀は悪うがしょう、したが、それとこれとは訳がちがいまさあ、なあ先生様そういうものでがしょう? やれ着物が汚ないの、画用紙が買えなかったのと、そいでもって落第くらったんじゃあまったくたまんねえでがすよ。あっしゃあ考えました、こりゃあやっぱしええ学校に上げなくっちゃ嘘だとね……区役所で通知を貰うんには骨も折りましたが、はあ、いいあんばいにやっとこさこんな立派な学校へあげることができて――これ、忠!」と彼はそこで恥しそうに着物の腰あげを弄《いじ》くっている伜の手を引っ張るのであった。「ああ、見ろうな、こんな立派な御殿みてえな学校に来たんだから、お前もちゃんとお辞儀してお願い申すもんだ」それほどの気持で中途入学してきた川上忠一は、しかし、いきなり低能組に編入されたのである。校長はそれも彼の権限として、汚れくさったその子の通信箋を一瞥《いちべつ》すると何らの躊躇《ちゅうちょ》もなくこの教室にあらわれ、一個の器物を渡すかのごとく簡単にそれを杉本の手に渡そうとした。杉本はむっとして校長の顔を注視した。すると彼はその時はじめて腰の上に組んでいた後手をほごし、それを上下に振り動かしながら口を切った。「智能測定はせなけりゃならん……たのむよ杉本君、まあとにかく君い……」そう言って渡された子供なればこそ――と杉本は思うのであった、校長が無雑作に決めた低能児の認定を、いわゆるビネー・シモン氏法によって覆《くつが》えしてしまいたいのだ。もしもそれが、当代の実験心理学が証明する唯一の科学的な智能測定法と言うならば――。杉本は測定用具と検査用紙を教卓に投げおき、「なあ川上――」と子供の頭に手をおいた。「お前の父《ちゃん》はどんな仕事を毎日してんだ?」一日の仕事に疲れきってはいながらも、彼はその子の冷たそうな唇を見つめて答えを聞きのがすまいとするために、ぶるぶると身体を緊張させていた。
 川上忠一は首をすくめて、できるだけ教師とその視線を合わすまいとしていた。彼は徐々にその眼を窓の外に移して行った。放課後まったく子供のいなくなった校舎は、しーんと静まり、かえってそのしーんとした静寂が耳につくのであった。
「え? 川上?」とさらに教師は答を促《うなが》して彼もまた窓外のうすれ行く夕陽の色に眼を移していた。川上忠一は何か決心したようにあわてて着物の襟を
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