ると網の目から、帰らねばならぬ自分の家が見える。汚れた場末の黒く汚れた屋根の下に自分の家を考えていよいよ不機嫌になるのだった。それが彼らに幸福かどうかは判らないが、杉本は一刻でも多く子供だけの世界に彼らを引き止めようとする――
「阿部、阿部――」ひょうきんな、さい槌頭《づちあたま》の阿部が「何でえ――」と答えながら教師の方へふりかえる、「お前の家はどこにあるんだ?」
「あたいん家《ち》か? あたいん家はねえ」と阿部は少しでも高くなって展望をきかせたいと思い、金網に縋《すが》ってこうもりのようにぶら吊《さが》った。「ほら、あそこに、ほら白い屋根が見えんだろう、そいから深川八幡様だ、あそことあそこの間にあんだけえどなあ……」彼は何とかして適確にそれを示したいと伸びたり縮んだりしたが、結局どれもこれも同じ黒い屋根でいっしょくたになり、ちえっと舌打ちして「あんまり小っちゃくて見えねんだよ、先生!」
「先生――あたいん家を教えてやらあ」と次の子が造作なく調子に乗ってきた。「ほら、あっこに大《でか》い池があんだろ? あれが木場でよ、あの横にあんだが……鉄工場が邪魔になって、よく見《め》ねえや」つづいて月島の方角に面した金網では、じだんだふんでいる子供が今だとばかり懸命に説明するのだった。「あたいん家の父《ちゃん》は、あのでかい工場だ、よう――お――いみんな来てみろ――な、煙《けむ》がまっ黒けに出てやがらあ。へん、あたいん家の父はえれえもんだ、毎日あの工場で働いてらあ……」
 その工場の黒煙だけは、たくましく京橋方面の濁った空気にとけこんでいた。都会の屋並をなでる煙は河の向う側から逆にこちらになびいていた。隅田川がその間に白々と潮を孕《はら》んでくねっていた。「寒くなってきたからもう帰ろうよ」と杉本は子供たちの顔を見わたした。ひと塊の――家にかえってもさっぱりおもしろくない子供たちは、その声にぎょっとしてまた顔を曇らせた。
「先生ももう帰えるか?」と一人が訊いた。
「わ――あい、先生え、たすけてくれえ?」そう悲鳴をあげて、元木武夫がその時屋上に駈けあがってきたのであった。彼は、びっくりして飛びすさった子供の隙間をまったく一またぎに跳ねこえて、わっと教師の胴っ腹にしがみついた。だらしのない日ごろの唇が今は両方にきりっと引き緊り蒼ざめた頬がぴくぴくひきつっていた。せわしく肩を上下させ 
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