併し猟夫になるにはコッペ先生は余りに獣類を愛し過ぎた。先生はその邸内に色々な獣類を飼つて置くので、まるで動物園のやうだつた。而して先生は一々それを僕達に紹介した。第一番が詩人の愛犬トリッフである。この犬は、「ジユールナール」紙に連載された。コッペの愛情の溢るる計りの詩の本尊で、その写真迄も新聞に掲げられて広く名の知られた犬である。次ぎはベラといふ名の牝山羊。而して其の次ぎがプチー。ルールーでこれはアンネット嬢さんのお気に入りの猫である。
僕達が漸く其の広々した庭園を(処々秋の木の葉の散つてゐる)――眺め始めた時に……十二時が鳴つて、昼飯の食卓に就く時刻が来た。啻《ただ》さへ秋は僕達の食慾をそそるのに、況《ま》して沢山な御馳走で……我々は遠慮なく腹一ぱいに頂戴した。コッペ先生の食慾は僕達程ではないので、シガレットを吹かしながら何かと雑談……
僕は今日始めて詩人の話振りを聞いて、ものを書くコッペと、話をするコッペとがひどく懸け離れてゐる事に気が付いた。書く方のコッペは感傷的なアイロニーと少し儀式張つた熱の高い抒情詩的であるが、話す方のコッペは、極めて開けつ放しで、愉快で気軽で、少しの遠慮もなく、それに猥談がかつたきわどい[#「きわどい」に傍点]駄じやれさへ交へて、人を笑はせるのである。思ふにこれがこの詩人の本来の二つの性質と見える。彼は繊細な洗煉された嗜好を持つてゐて、同時に単純な心の持主である。貴族的な感情と民衆的な精神とが一つの身体に同棲してゐるのだ。言ひ換へて見れば、芸術家的敏感を巴里の悪戯小僧の心意気で裏付けた様なものだ。コッペ先生が自分でも言つてゐられる如く彼は全く巴里生え抜きの巴里つ児である。其の声音迄が明澄で、しかも喉音が多く、所謂「フォブリアン」の抑揚《アクセント》が窺はれる。隠れた愉快さがその目の中には笑つてゐて、其の薄い脣に迄みなぎつてゐる。此の翰林院大学士《アカデミアン》は若し書店や雑誌社からの原稿の催促がなかつたならば、常時道草を喰つて一軒毎に店先を覗いて歩いたり、又は馬車に引殺された犬などを見て喜ぶ、悪戯小僧によく似てゐるあるものが先生のどこかに潜在してゐるのが、僕にはよく分つた。先生はこの遊惰の傾向が自分に十分ある事を自知して居られた。で、先生は或る書物の中に下のやうなことを言つてゐる。
『余は素敵に勉強した怠惰者《なまけもの》だ』
実
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