ろ文芸上の質問を出して、先づ最初に「テアートル・フランセーズ」の事を訊いてみた。すると先生は、
「私の力作はいづれもリシュリユ町で(コメデー・フランセーズ座を指す)初演した事がないのです。悪運がつきまとつてるとでも言ふのでせうか。」と口を切つて、而してその創作のセヴエロ・トレリーの来歴を次のやうに話された。
「その脚本を書き上げるや否や大急ぎで私は原稿をペラン(当時のコメデー・フランセーズの理事長)に手渡しました。処が、その挨拶が如何にも冷淡であつた。のみならず、二幕目のあたり場[#「あたり場」に傍点]で、『ビアがその子に懺悔する処』は芝居にならぬといふので私はむつ[#「むつ」に傍点]としてその原稿を取り返した。而して心の内で言つたのです。ふん、若し僕の脚本が右河岸(コメデー・フランセーズ座を云ふ、セーヌ河の右岸にあるから)で芝居にならぬといふなら、左河岸(オデオン座)でやらして見せよう! こん畜生! コメデー・フランセーズ座の前を通る乗合馬車はオデオン迄行くわい!
と、そこで、私はオデオン行きに乗つた。当時のオデオン座の理事長ラ・ルーナ氏はペランの様に木で鼻をくくつた様ではなかつた。而してラ・ルーナ氏はその場ですぐに云ふのだつた。あなたの「セヴエロ」を頂戴する事にします。而して一週間内に稽古にかかりませう。
その次ぎの脚本で、テアートル・フランセーズ座へ提出した『|王冠の為め《プール・ラ・クーロンヌ》』の経緯も亦セヴエロと同じ運命でしたよ。この新脚本は同座の委員会では余り歓迎されなかつた。併し私が無理にも願つたら、採用せられたのでせうが、私は頭を下げるよりはと思つて又もオデオン座行きの乗合馬車に乗つたのです。だからこれも初演はオデオン座でした。」
コッペ先生はコメデー・フランセーズ座との経緯を右のやうに話して聞かされたのであるが、これは他の人達の言ふのとは少々違つてゐるやうであるから序乍《ついでなが》ら書き加へて置く。その説によればペランがコメデー・フランセーズの理事長であつた時分、コッペとコクランとの間に或る衝突があつてから以後は、コッペとコメデー・フランセーズ座との間はしつくり行かなくなつたといふのである。而して其の原因はずつと以前に溯ることで、当時コッペは、コメデー・フランセーズ座の図書係をしてゐたので、毎日午後から悠々と出勤したものであつた。
コッ
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