いては彼は先進者であるから、万事彼の説に拠り、彼の説に倣うという有様であった結果に過ぎないのである。故に新学問の初期即ち明治二十年代位に至るまでは、西洋人の説とさえいえば、無暗《むやみ》にこれを有難がったものであった。例えば伊藤公が憲法取調のために洋行し、スタイン博士に諮詢《しじゅん》された以後数年間は、スタインが流行者で、同氏の説だと言えば当時の老大官連は直ちに感服したものであった。当時の川柳に「スタイン(石)で固い頭を敲《たた》き破《わ》り」というのがあった。舶来品といえば信用がある時代は、学問界においては残念ながらまだ全く脱してはいない。
我輩の友人に時計製作の大工場を持っている人がある。その工場で出来る時計は頗る精巧な物で、いわゆる舶来品に劣らぬものであるが、その製造品には社名が記し付けてない。我輩がその理由を尋ねると、その工場主は嘆息して「自分の社の名を出したいのは山々であるが、和製は即ち劣等品との世間の誤解が未だ去らぬため、銘を打てばあるいは劣等品と思われて売価が低落し、もしまた優等品と認められても、これは偽銘を打って売出すのではないかと疑われる恐があるので、世間に真価を認められるまで、遺憾ながら無銘にして置きます」と言われた。
また本年四月、我輩の故郷なる伊予の宇和島にて、旧藩主伊達家の就封三百年記念として、藩祖を祀った鶴島神社の大祭が行われたが、その時旧城の天主閣において、伊達家の重器展覧会が開かれた。その折り場内に陳列されたものの中に、旧幕時代に佐竹家より伊達家に嫁せられたその夫人の嫁入道具一切が陳列されてあったが、大小数百点の器物は、ことごとく皆精巧を極めたる同じ模様の金蒔絵であって、色彩|燦爛《さんらん》殆んど目を奪うばかりであった。多数の観覧人の中に、村落から出て来たと見える青年の一団があったが、その中の一人賢こげに同輩を顧みて曰く、「これはまことに見事な物じゃ。こんな物はとても日本で出来るはずはない。舶来であろう。」
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六四 グローチゥス夫人マリア
フーゴー・グローチゥス(Hugo Grotius)は、国際法の鼻祖であって、その著「平戦法規論」(De jure belli ac pacis)は国際法の源泉であることは、人の好く知るところである。
しかしながら、近世の文明世界が、国際法の基礎的経典とも称すべきこの「平戦法規論」という大文字の恩賚《おんらい》を受けて、永くその恵沢に浴することが出来るのは、全くグローチゥス夫人マリア(Maria)の賜物と言わざるを得ない。
フーゴー・グローチゥスはオランダの人で、一五八三年に生れた。幼時から穎悟《えいご》絶倫、神童と称せられ、九歳の時ラテン話で詩を作って、人々を驚嘆せしめ、十一歳にしてレイデン大学に入り、十五歳のとき既に書を著した。この年オランダの公使に伴われてフランスに赴いたが、国王アンリー第四世は、この少年の非凡なる天才を激賞して、黄金の頸飾をこれに授けて、「ここにオランダの奇蹟あり」(Voila le Miracle de la Holland!)と言われた事さえあった。十六歳のとき法学博士の学位を得、十七歳のとき弁護士となって、その得意の雄弁を法廷に振い、その名声は已に広く国内に喧伝した。二十歳を数えたとき、オランダ政府の国史編纂官に挙用され、二十四歳のとき、遂に検事総長の高官に任ぜられたが、かように迅速な立身はオランダにおいては前代未聞であると言いはやされたのである。
一六○八年、マリア・ファン・レイゲスベルグ嬢(Maria van Reigesberg)と結婚して、一家をなすこととなったが、前にも一言した如く、氏がこの好配偶を得たのは、実に国際法の起源史に重大なる関係を有する事になったのである。
一六一三年、氏はオランダ政府の命令を蒙って英国に使したが、その後ち帰国してみると、当時オランダにては、アルメニアン教徒とゴマリスト教徒との紛争激烈を極め、ために国内甚だ混乱の状態であった。
本来グローチゥスはアルメニアン派に属しておったが、当時オランダ総督たりしモーリス公は、ゴマリスト党に与《くみ》して、兵力をもって憲法を破毀し(Coup d' etat[#「etat」の「e」はアクサン(´)付き])、グローチゥスら反対派の人々を捕えて獄舎に下し、グローチゥスの財産は、ことごとくこれを没収して、氏をば終身禁錮の刑に処し、ゴルクム町より程遠からぬローフェスタイン城に幽閉してしまった。その幽閉中は、政府は食料として毎日僅に二十四スー(我四十五銭六厘ほど)を給与するに過ぎなかったが、氏の夫人マリアは、その夫が、自己の政敵にして且つ迫害者たる総督政府から供給を受けることを屑《いさぎよ》しとせずして、自らこれを差入れることとした。
グローチゥスの監禁は、始めの間は甚だ厳重であったから、その父といえども面会を許されなかったが、その後マリア夫人が面会を懇請するようになったとき、典獄は夫人に対《むか》って、もし一度び獄内に入るときは、再び外に出ることが出来ず、また一度び獄舎を出るときは再び帰獄することが出来ない。汝は夫と倶《とも》に一生を獄中で送ることを厭わぬかと聞いた。マリア夫人は、少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、直ちに右の条件を承諾し、自ら進んで囹圄《れいご》の人となり、それより我夫とともに、甘んじて一生涯を鉄窓の下に呻吟《しんぎん》しようとしたのであった。
当時グローチゥスは三十六歳であったが、終身禁錮の刑に処せられても、少しも失望することなく、その身は獄舎の中にありながらも、夫人マリアの慰藉と奨励とを受けつつ、一意専心思いを著述に潜めておった。かくて後には、典獄の許可を得て、ゴルクムなる友人たちに依頼して、一週に一度ずつ書籍を櫃《ひつ》に入れて交換出納し、また衣類などを洗濯のために送り出すことも許されるようになった。
夫人マリアが、その夫と獄中生活を共にするようになってから、もはや一年有半を経過した。その間、両人は、絶えず脱走の機会の到来するのを窺うておった。夫妻両人の毎週送り出す櫃は、何時も何時も獄吏どもには何らの興味をも与えない古本や、汚れた衣類ばかりであったので、歳月を経るに従って、これらの検査も次第に緩《ゆる》やかになって、終には櫃の蓋を開くことさえもせずに、これを通過させるようになった。
マリア夫人が、一日千秋の思いをして待っていた逃走の機会は、今や次第に近づいて来た。夫人はその機会のいよいよ熟したのを見て、夫に勧めて冒険なる脱獄を企てたのである。その方法として、夫人は監守兵の怠惰に乗じて、その夫を櫃の中に隠匿《いんとく》して、これを救い出すという画策を案出したのであるが、これを実行するのは、種々の困難と、多大の危険とが伴うことは言を俟《ま》たないことであるから、熟考の上にも熟考を要する次第で、軽々しく手を下すことが出来なかった。たとい平素は監守の任にある将卒の注意が緩んでいるとしても、もし一兵卒が櫃を怪しんだり、あるいは好奇心から偶然にもその蓋を開けて見るような事でもあるならば、折角の千辛万苦も、一朝水泡に帰して万事休するに至るは明瞭な事柄である。しかのみならず、その櫃は長さ僅に三尺五寸ばかりで、辛うじて身を容れるに過ぎないものである。故にローフェスタイン城からゴルクム町に達するまで、グローチゥスは窮屈なる位置姿勢で忍ばねばならず、もしまた運送の人夫が倒様《さかさま》に櫃を置いたり、あるいは投げ出しでもしたなら、それこそ大変、生命の危険にも立ち及ぶ虞《おそ》れがある。なおまた櫃の蓋を密閉するときは、窒息の禍を招かぬとも限らないのであった。
かような仕儀《しぎ》であるから、マリア夫人は種々苦心熟慮の末、かつて雇傭してその心を知り抜いている忠僕と忠婢に、予《あらかじ》め密計を語って、城外にてその櫃を受け取り、直ちにこれをゴルクム町の友人の家に護送する事を依頼した。またその櫃には小さい孔を穿《あ》けて、空気の流通を自由にし、しばしばグローチゥスをこれに入れて試験を行い、それからひたすら、好機会の到来を侍っておった。
偶《たまた》ま典獄なる司令官が公務のために他所へ旅行した事が分った。これこそ天の与えた好機会と、その不在中にマリア夫人は、夫グローチゥスが伝染病に罹ったと称して、監守兵らが両人の監房に出入するのを遠ざけ、且つ司令官の妻を訪問して、自分の夫は近頃病気に罹ったために、読書著述が出来なくなったから、一先ず書籍をゴルクム町へ送り返すことを乞うという趣を語って、その承諾を得、直ちに獄舎に帰り、予定通りに例の櫃の中にその夫を潜ませて、二人の監守兵をしてこれを運び出させようとした。しかるに、監守兵の一人はその櫃の平常よりも重いのを訝《いぶか》って、
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この中にはアルメニアン教徒が這入っているのではないか。
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と言った。これ実に発覚の危機、間髪を入れない刹那であった。この時に当り、もしマリアの機智胆略がなかったなら、文明世界が国際法の発達を観ることなお数十年の後になったかも知れぬ。マリア夫人は声色共に自若、微笑を含んで、
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さよう、アルメニアン教徒の書籍が這入っているのです。
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と答えた。それで兵卒らも終《つい》に蓋を開くことをせず、そのまま櫃を城門外に運び出した。
忠僕某は、マリア夫人の兼ねての命令の通りに、城外で櫃を受け取り、直ちにこれを船に乗せて、運河の便を借りて、ゴルクム町に運送しようという考案で、船頭に対《むか》って充分の注意を与え、櫃を倒置したり、投げ出したりすることを禁じて、丁寧にこれを取扱わしめた。やがてゴルクム町に到着したが、その時船頭は、その櫃を橇車《そり》に乗せて、行先へ送ろうとしたのを、かねてよりそこへ来て待ち設けていた忠婢某が出て来て、その中には破損しやすい物が這入っているのだから、自分が受け取って行くといって、櫃をば担架《たんか》に乗せて、それを夫人に命ぜられたグローチゥスの友人ダビット・ダヅレールの宅へ送り届けたのである。
自由を得たグローチゥスは、直ちに煉瓦職工に変装して、一|梃《ちょう》の鏝《こて》を持って逃走し、アントウェルプ府に赴き、それから国境を越えようとする時に、一書をオランダ議会に送って、その冤《えん》を訴えて脱獄の理由を弁明し、且つ自分は祖国より迫害されたけれども、祖国を愛するの心情は、これに依って毫末も影響せられないという事を陳述した。
グローチゥスは国境を越えて仏国に走り、翌月その首府パリーに到着した。これ実に一六二一年四月の事である。
慧智なる夫人マリアは、夫の脱獄後もなお獄中に留っておって、自分の夫は激烈なる伝染病に罹っていると偽って、監守兵の室内に入り来るを避け、かくして一瞬間でも発覚の時機を延ばすようにと苦心したが、夫が脱獄してから、已《すで》に多くの時日を経過し、最早や国境を越えたのであろうと思われる頃、始めて典獄に自首して、夫を脱走させた罪科を乞うた。典獄は、マリアを質として禁錮し、もしマリア夫人を夫の代りに何時までも獄に繋《つな》いで置いたならば、グローチゥスは必ず情に牽《ひ》かされて、帰獄するに違いないと思っていたが、数月の後ち、オランダ議会は、マリア夫人の貞操を義なりとして、遂にこれを放免することとなった。夫人は出獄すると直ぐ夫の後を追うてパリーの謫居《たくきょ》に赴き、再び窮乏艱苦の間に夫を慰めて、その著書の完成を奨励したのである。
当時、仏王ルイ第十三世は、グローチゥスの不遇を憐んで、年金三千フランを授ける事に定められたけれども、国庫はその支払をしてくれなかった。故にグローチゥス夫婦は、故郷の親戚より送ってくれる僅かの金員、衣服、食品などに依って、ようやくに日々の生活を支え、その困苦欠乏は決して少なくはなかったのであるが、グローチゥス夫婦は、毫もこれがためにその志を屈することなく、互に励み励まされてその著述を継続した
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