だ廃せられざるものがあったから、判事エレンボロー卿(Lord Ellenborough)は、「これ国法なり」(It is the law of the land)の一言をもって衆議を圧し、決闘の請求に許可を与えた。しかし決闘は実際には行われなかったが、被告の見幕に恐れをなして、原告は訴訟を取下げてしまったのである。
 かくてこの事件も無事に治ったが、さて治らぬのは輿論《よろん》の沸騰である。決闘裁判の如き蛮習を絶つには、須《すべか》らく復讐を根本思想とせる「殺人私訴」を廃すべきであるとの議論が盛んに主張せられ、一八一九年の議会において、二対六十四の大多数をもって、「殺人私訴法」(Appeal of Murder Act)を議決した。これによって殺人その他重罪の私訴は廃せられ、その結果、決闘裁判の請求もソーントンをもって最後とすることとなった。
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 三九 板倉の茶臼、大岡の鑷


 板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その後《の》ちを承《う》けて京都所司代となり、父は子を知り子は父を辱しめざるの令名を博した人である。
 重宗或時近臣の者に「予の捌《
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