ーウイック伯(Earl of Warwick)に嫁したので、バークレー領は近親の男子が相続した。しかるに、後に至ってエリザベスの子孫が、この相続権を争ったのがそもそもこの訴訟の始りで、後には法廷の弁論のみではあき足らずして、干戈《かんか》に訴えるという大騒動となり、一四六九年には、双方各々五百人ばかりの勢を率《ひき》いてニブレー・グリーン(Nibley Green)の野に戦った。一方の大将はエリザベスの孫に当るタルボット(Talbot)であったが、この戦に敗死し、従兵死する者百五十、傷つく者三百に及んだ。しかるに、タルボットの親戚は、なおその訴訟を続け、盛んに権利を主張しておったが、ジェームス一世の時に至って始めて判決が下り、原告の敗訴と決定して、領地は第十一代のバークレー侯に帰したのである。
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二八 矛盾の申立
幕府の能吏渡辺大隅守綱貞が町奉行であった時に、或医者が訴訟を起した。その申立は、「全治の上は金五両の謝礼との約束にて、ある癩病人を治療し、既にその効を奏したにもかかわらず、相手方は謝儀を出すことを拒むに依り、宜しく御裁断を仰ぐ」というのであった。
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