枢モで五人の賭博者を捕えて、五人共に同じ場所に梟首《きょうしゅ》してあったのを、家康が鷹野に出た途上でこれを見て、帰城の後刑吏を召して、「首を獄門に掛けさらすは、畢竟諸人の見せしめのためなれば、五人一座の博奕なりとも、なるべく人立多き五箇所へ分ちてさらし置くべし」と命じた。それ故、これより後は十人一座で捕えられたときには十箇所に分って梟首するようにした。
 この如く、細心なる注意をもって、いわば経済的に威嚇《いかく》鑑戒《かんかい》の行刑法を行うたので、その結果、二三年の間に、博奕は殆んど跡を絶つに至ったということである。
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 二一 法律の事後公布


 徳川時代の刑典は極めて秘密にせられたものであるが、刑の執行はこれを公衆の前において行って、人民の鑑戒としたものである。且つ刑場には、罪状および刑罰の宣告を記した捨札《すてふだ》を立て、罪人を引廻《ひきまわ》す時にも、罪状と刑罰とを記した幟《のぼり》を馬の前に立てて市中を引廻したものであるから、法規はこれを秘密にし、裁判の宣告はこれを公にした結果、人民はこれに依って、如何なる犯罪には如何なる刑罰が科せられるかを知ることが
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