ニである。
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右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党《くみ》して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事|覚《あら》われて獄中に囚《とら》われていたが、乱|平《たいら》ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物|花卉《かき》を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。
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二〇 家康の鑑戒主義行刑法
水戸烈公の著「明訓一班抄」に拠《よ》れば、徳川家康は博奕《ばくえき》をもってすべての罪悪の根元であるとし、夙《はや》く浜松・駿府在城の頃よりこれを厳禁した。
江戸城に移った後も、関東にて僧侶男女の別なく公然賭博をなす者の多いのは、畢竟《ひっきょう》仕置《しおき》が柔弱であったためであると言うて、板倉四郎左衛門(後に伊賀守勝重)らに命じ、当時盗罪の罰は禁獄なりしにかかわらず、賭博をなす者は容赦なく捕えて、片端よりこれを死刑に処せしめた。
或時浅
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