た自由なる訳語をその著「西洋事情」中に採用せられ、同書が広く世に行われたために、竟《つい》にこの語が一般に行われるようになり、随ってこの新思想が、我国に伝播するの媒となったのである。して見ると、我国においては、自由なる語、自由なる思想の開祖は、実に福沢先生であると言うてもよかろうと思われる。
 その後ち明治五年に中村敬宇先生は、ミルのリバーチーを訳述して「自由之理」と題せられたが、この書もまた広く世に行われたものである。
 これらの書の行われた結果として、欧米において前世紀の後半に至るまで盛んに行われた自由主義、即ち自由の実現をもって人生就中政治の極致とする思想は、我国に輸入せられて、自由党なるものが興り、その首領たりし板垣伯は、岐阜において刺客の刃に傷つきたる時にも、かの「我に自由を与えよ、しからざれば我に死を与えよ」と言いしパトリック・ヘンリーの激語の反響の如くに、「板垣は死すとも自由は死せず」と叫ばるるに至ったのである。
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 五九 共和政治


 大槻文彦《おおつきふみひこ》君の談によれば、共和政治という語は、大槻|磐渓《ばんけい》先生が初めて作られた訳語であると
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