見捨てるのは、師が平素から、子供を教養することの出来ない者は子を設けてはならぬと言われておった垂訓にも悖《もと》るものであり、またこの容易にして且つ危険のない脱獄を試みないのは、畢竟《ひっきょう》、善にして勇なる所業をなさないものであるから、平生徳義の貴ぶべきことを唱導せられた師としては、甚だ不似合なことで、自分は、師のためにも、はたまたその友たるクリトーン自身のためにも、慚愧《ざんき》の念に堪えざる次第であると説き、なおその辞をつづけて、
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サア、どうぞこの処を能《よ》く能《よ》く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已《すで》に過ぎ去っております。――私どもは決心せねばなりませぬ。――今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、――しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。――もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。――サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。
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情には脆《もろ》く、心は激し易いクリトーンが、かくも熱誠を籠めて、その恩師に対《むか》って脱獄を勧めたのであった。ソクラテスは
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