、その間、心静に、師を思う情の切なるこの門弟子《もんていし》の熱心なる勧誘の言葉に耳を傾けておったが、やがて徐《おもむろ》に口を開いて答えていうには、
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親愛なるクリトーンよ、汝の熱心は、もしそれが正しいものならば、その価値は実に量《はか》るべからざるものである。が、しかし、それがもし不正なものであるならば、汝の熱心の大なるに随って、その危険もまた甚だ大なるものではあるまいか。それ故、余は先ず、汝の余に勧告する脱獄という事が、果して正しい事であるか、あるいはまた不正の事であるかを考える必要がある。余はこれまで、何時《いつ》も熟考の上に、自分でこれが最善だと思った道理以外のものには、何物にも従わなかったものであるが、それを今このような運命が俄《にわか》に我が身に振りかかって来たからと言って、自分のこれまで主張してきた道理を、今更投げ棄ててしまうことは決して出来るものではない。否、かえって余に取っては、これらの道理は恒《つね》に同一不易のものであるから、余の従前自ら主張し、尊重しておったことは、今もなお余の同じく主張し尊重するものであるのだ。
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