、べしという令を出した。しかし、人民はその何の意たるを了解せず、怪しみ疑うて敢えてこれを移そうとする者がなかった。依って更に令を下して、能《よ》く移す者には五十金を与うべしと告示した。この時一人の物好きな者があって、ともかくも遣《や》ってみようという考で、この木を北門に移した。商鞅は直ちに告示の通り五十金をこの実行者に与えて、もって令の偽りでないことを明らかにした。ここにおいて、世人皆驚いて、商君の法は信賞必罰、従うべし違うべからずという感を深くし、十年の内に、令すれば必ず行われ、禁ずれば必ず止むに至り、新法は着々実施せられて、秦国富強の端を開いたということである。
けだし商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に帰依《きえ》せしめたものであって、その機智感ずべきものがないではないが、かくの如き児戯をもって法令を弄《もてあそ》ぶは、吾人の取らざるところであって、これに依って真に信を天下に得らるべきものとは思われぬのである。そもそも法の威力の真の根拠は、その社会的価値であって、「信賞必罰」というが如きは、単にその威力を確実ならしめる所以に過ぎぬ。木を北門に移すべしという如き、民がその何の故たるを知らぬ命令、即ち何らの社会的価値なき法律を設けて、信賞必罰をもってその実行を期するという態度は、誠に刑名法術者流の根本的誤謬であって、彼ら自身「法を造るの弊」を歎ずるの失敗に陥ったのみならず、この法律万能主義のために、かえって永く東洋における法律思想の発達を阻害する因をなしたのは、歎ずべく、また鑑《かんが》みるべき事である。
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一五 側面立法(Oblique legislation)
土佐の藩儒|野中兼山《のなかけんざん》は宋儒を尊崇して同藩に宋学を起した人であるが、専《もっぱ》ら実行を主とした学者であって、立言の儒者ではなかった。したがってその著作は多く伝わっていないが、その治績の後世に遺《のこ》ったものは少なくない。即ち仏堂を毀《こぼ》ち、学校を興《おこ》し、瘠土《せきど》を開拓して膏腴《こうゆ》の地となし、暗礁を除いて航路を開き、農兵を置き、薬草を植え、蜜蜂を飼い、蛤蜊《こうり》を養殖するなど、鋭意新政を行って四民を裨益したことは頗《すこぶ》る多かった。
しかしながら、彼は資性剛毅の人であったこととて、新政を行うにも甚だ峻厳を極めて、いやしくも命に違う者は毫末《ごうまつ》も容赦するところなく、厳刑重罰をもって正面よりこれを抑圧したのであった。即ち「撃レ非如レ鷹」[#「」内の「レ」は返り点]と言われたほどであったから、ために竟《つい》に禍を買って、その終を全うすることの出来なかったのは痛惜すべきことである。
しかし、彼にもまた巧妙穏和なる間接立法の例がないではない。当時土佐の民俗には一般に火葬が行われておったが、兼山はその儒教主義からしてしばしばこれを禁止したのである。けれども、多年の積習は到底一朝にして改めることが出来なかった。ここにおいて彼はその方針を一変して、強いて火葬を禁ぜぬこととし、かえって罪人の死屍は必ずこれを火葬とすべき旨を令した。これよりして、火葬の事実は次第に少なくなり、遂にこの風習はその跡を絶つに至ったということである。兼山の採ったこの方法は即ち敵本主義の側面立法であって、民心を刺激すること寡《すく》なくしてしかも易俗移風の効多きものである。もし兼山にして、常に今少しくその度量を寛大にし、人情の機微を察することかくの如くあったならば、その功績はけだしますます多大となって、貶黜《へんちゅつ》の奇禍を招くが如き事情には立至らなかったことであろう。
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一六 竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す
伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力を見なかったことがあった。時に竹内柳右衛門という郡《こおり》奉行があって、大いにその撲滅に苦心し、種々工夫の末、新令を発して、全く賭博の禁を解き、ただ負けた者から訴え出た時には、相手方を呼出して対審の上、賭博をなした証迹明白な場合には、被告より原告に対して贏《か》ち得た金銭を残らず返戻させるという掟にした。こういう事になって見ると、賭博をして勝ったところで一向|得《とく》が行かず、かえって汚名を世上に晒《さら》す結果となるので、さしも盛んであった袁彦道《えんげんどう》の流行も、次第に衰えて、民皆その業を励むに至った。
この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は固《もと》より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。竹内の新法は、同意の上にて悪事を倶《とも》に
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