tく採用せられたのである。
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一一 ドラコーの血法
ドラコーはアテネの上古に酷法の名高き「血法」を制定した人である。この法律は、実に紀元前六二一年、彼が執政官の職に在ったときに制定せられたものである。ただしバニャトー(Bagnato)らの説によれば、右の酷法は、決してドラコーの創意に出たものではなく、その内容は、アテネ古来の慣習法としてドラコー以前に存在し、彼はただこれを成文法としてなしたるに過ぎないということである。
この説の当否はとにかく、ドラコーの法は実に驚くべき酷法であって、「血法」とは名づけ得て妙と言わざるを得ない。そしてその最も惨酷極まる点は、実に死刑の濫用にあるのである。叛逆殺人などの重罪を罰するに死刑をもってするさえ、現今では兎角《とかく》の論もあるのに、ドラコーの法では、野に林檎《りんご》の一二|顆《か》を盗み、畑に野菜の二三株を抜いた者までも、死刑に処する。否、これなどは血法中ではまだ寛大な箇条というべきであって、怠惰なる者を罰するに死刑をもってするに至っては、実に思い切った酷法と謂わなければならぬ。なおその上に、刑罰を科せられるものは、人類のみに止まらずして、無生物にまでも及び、石に打たれ木に圧されて死んだ者があった時には、その木石に刑を加えるのであった。けだしこれは、民をして殺人の重罪たる事を知らしめる主意であったのであろう。
ドラコーの法は、実に酷烈かくの如きものであって、一時満天下を戦慄せしめたが、苛酷がその度を過ぎていたために、かえって永くは行われなかったということである。
或人ドラコーに向って、「何故に犯罪は殆ど皆死をもって罰するのであるか」と尋ねた。ドラコーは答えて、「軽罪があたかも死刑に相当するのである。重罪に対しては余は適当の刑罰なきに苦しむのである」と言ったとか。たといバニャトーの説の如く、この酷法の内容は以前より存していたにもせよ、立法者の刑罰主義もまた与《あずか》って力あったことは疑うべくもない。
プルタークの英雄伝によれば、「血法」なる名称はデマデス(Demades)の評語に起源している。曰く、ドラコーは墨をもってその法を記したるものにあらず、血をもってせしなりと。
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一二 ディオニシウス、懸柱の法
昔シラキュース王ディオニシウス(Dionysius)は、桀紂《けっちゅう》にも比すべき暴君であったが、彼は盛んに峻法を設けて人民を苦しめた。一つの法令を発するごとに、これを一片の板に書き付け、数十尺の竿頭《かんとう》高く掲げて、これをもって公布と号した。人民は竿頭を仰ぎ見て、また何か我々を苦しめる法律が出来たなと想像するのみで、その内容の何たるを知ることが出来ず、丁度頭の上で烈しい雷鳴が鳴るように思うて、怖れ戦《おのの》くの外はなかったと言い伝えている。
立法者にして殊更に文章の荘重典雅を衒《てら》わんがために、好んで難文を草し奇語を用うる者はディオニシウスの徒である。民法編纂の当時、起草委員より編纂の方針に関する案を法典調査会に提出して議決を経たる綱領中に、「文章用語は意義の正確を欠かざる以上なるべく平易にして通俗なるべきこと」とあるは、特にこの点に注意したるためであった。
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一三 踊貴履賤
斉の景公、或時太夫|晏子《あんし》に向って言われるには、「卿の住宅は大分町中であるによって、物価の高低などにも定めて通じていることであろう」。晏子|対《こた》えて「仰《おおせ》の通りで御座ります。近来は踊《よう》の価が貴《たか》く、履《り》の価が賤《やす》くなりましたように存じまする」と申上げた。これは、履とは普通人の履物のこと、踊とは※[#「※」は「月+りっとう」、第4水準2−3−23、55−5]刑《げっけい》を受けた者の用いる履物のことで、今で言ったら義足とでもいうべきところである。当時景公酷刑を用いること繁きに過ぎたので、晏子は物価の話によそえてこれを諷したのであった。景公もそれと悟って、その後は刑を省いたという。
唐律疏議表に、この事を称賛して「仁人之言其利薄哉」と言っておる。
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一四 商鞅、移木の信
秦が六国を滅して天下を一統したのは、韓非子《かんぴし》・商鞅《しょうおう》・李斯《りし》らの英傑が刑名法術の政策を用いたからであって、その二世にして天下を失うに至ったのは、書を焚き儒を坑《あな》にしたに基づくことは、人の知るところであるが、有名なる「商鞅、移木の信」の逸話は、この法刑万能主義を表現するものとして頗《すこぶ》る興味あるものである。
商鞅が秦の孝公に仕えて相となったとき、その新政の第一着手として、先ず長さ三丈の木を市の南門に立てて、もしこの木を北門に移す者あらば十金を与
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