フであった。
その後グローチゥスの大才は、漸く世人の認めるところとなり、宰相ダリヂールの奏請に依って年金の一部を支給せられることとなり、またジャック・ド・メームはその居城の一部を貸してこれに住ましめ、ド・ツーは、その書庫の使用を許してくれたので、その著述はますます進捗《しんちょく》し、遂に一六二五年に至って、二十年前より企てていた「平戦法規論」(De Jure Belli ac Pacis)の大著述は公刊せられることになったのである。
嗚呼、グローチゥスにして、もしこれを助くるに夫人マリアの貞操義烈をもってしなかったならば、可惜《あたら》非凡の天才も空しく獄裡の骨となりおわり、明教を垂れて万世を益することが出来なかったかも知れないのである。
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六五 ジョン・オースチン夫人サラー
ジョン・オースチン(John Austin)は分析法理学の始祖であって、今日に至るもなおイギリス派の法律学者の思想を支配している大家なることは、世人の熟知しているところである。
しかるに、その名著「法理学講義」(Lectures on Jurisprudence)は、氏の歿後に未亡人サラー(Sarah)が千辛万苦の結果出版したものであって、今もなお法学界にこの大著述が儼存して、吾人を裨益しているのは、偏《ひとえ》に夫人サラーの賜物といわなければならない。
オースチン夫人サラーは、一七九三年、英国ノリッチ(Norwich)州の名家ティロー家に生れた。資性温順の上に、天成の麗質であったが、厳粛なる家庭教育の下に人となり、ことに古文学および近世語に熟達しておった。一八二○年、当時弁護士であったジョン・オースチンに嫁してより後は、専ら家事にその心を尽したが、暇があれば、かねて好める古典や独仏語で書いてある有名な歴史詩文などを、翻訳することに従事しておった。故に、夫人の手になれる名高き著書もまた数種あったのである。
しかしながらサラー夫人の功績にして、最も広大に人類を裨益したものは、いうまでもなく、その夫オースチンの遺稿を整理編輯してこれを公にした一事である。
一八六七年八月十二日のタイムス新聞は、その紙上に夫人サラーの死亡を記すと同時に、その伝記を掲載して、その末尾に、「夫人がその齢|已《すで》に高く、しかも病苦と戦いながら、この法理学上の大産物を公刊したのは、吾人が夫人に対して深厚なる感謝を捧げざるを得ないところである。この挙たるや、真にサラー夫人が、その夫のために最も高貴なる記念碑を建立したものと言わねばならぬ」と記している。
この賢夫人サラーの生涯は、実に一立志伝である。しかのみならず、その夫の遺著に題した序文は、絶代の名文と称せられているものであって、我輩はこれを読むたびにひたすら感涙を催すのである。我輩は毎年大学における法理学の講壇にてオースチンの学説に説きおよび、この夫人サラーの功績を語る時には、毎《つね》にこの序文をもって、かの諸葛孔明の「出師表《すいしのひょう》」に比するのである。古人は、「出師表」を読んで泣かざる者は忠臣にあらずといったが、我輩はサラー夫人のこの序文を一読して感涙に咽《むせ》ばない人は、真の学者ではないと評したほどであった。故に、以下少しくこの貞操なる賢婦人の性行事業について、話してみようと思う。
サラー夫人はオースチンに嫁して後《の》ち、夫とともに居を首府ロンドンに移し、クヰーンス・スクェアー(Queen's Square)と称する町に寓しておったが、偶然かあるいは故意にか、その住宅は、かの有名なるベンサム(Bentham)およびゼームス・ミル(James Mill)両大家と軒を並べていたのであった。随ってオースチン夫妻は、この二|碩学《せきがく》およびゼームス・ミルの子なるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)らと親しく往来して、交を結んだ。オースチンおよびその夫人が、後年ベンサムの実利主義(Utilitarianism)をもって、その法理学の根底としたのも、その基づくところは、あるいはこの時の親密なる交際にあったかも知れないのである。その他当時いやしくも英国の大学者と称せられた者で、サラー夫人の才学を慕って、その家を訪ずれ、その客とならなかった人は稀であったということである。タイムス紙はこの事を記して、サラー夫人は当時有名なる文学者であったけれども、その性質は極めて貞淑恭謙で、自ら進んで名を求めるような事は一切これを避け、且つまた夫人の家は富裕でなかったから、その客室の什器の如きも、甚だ質素であって、室内に装飾と称し得るような物は、絶えてなかった。しかしながら夫人サラーの客間には、ロンドン府の如何なる貴顕富豪といえども、これを集めることの出来ない当世の大学者が
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